家族を捨てる 葬る 成仏させる。 | しいたけ。のブログ

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夫 大芋(2011年生 女)小芋(2013年生 男)の四人家族。
ドタバタな日々に、元々の鳥頭(3歩歩けば忘れる)が絶賛進行中。
ホ・オポノポノのクリーニングで自由の感覚を日々上書き中。
イラスト描いたりクリーニングして引きこもりライフ満喫中です。

こんにちは。


しいたけ。です🍄‍🟫












☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



わたしは思考の学校には入っていないんですが


本を何冊か読んだり



 

 



 

 



 

 


YouTubeを見て、ワークをやったりしていました。



そんな門外漢のわたしの見方、

ということを理解して頂き進めますと



思考の学校には、まず前提として


「100%自分の思考が現実を創っている」


というものがあります。



そして柱の一つとして


「親からの愛を思い出す」


というものがあります。



わたしは書き出しや色んなワークで

両親への思いを見直していきました。



するとある日いきなり

オセロの黒がパタパタと白になるように

母への恨みやわだかまりが反転し

気付けば涙がぼたぼた垂れていました。


って四行でまとめましたが

書き出しは割とコツコツ続けていました。


その後母と電話で話していた時に

運良く話の流れで、母への感謝と

母の子供で良かったと伝えることが出来ました。


どえらい臨時収入とか

ミラクルがある訳ではないんですが

心の底が緩んだような状態が続いています。



親との課題は一区切りついたのかな……

と思っていた時に

吉本ばななさんのこの記事を読みました。



読む前から壮絶なことは想像ついたのですが

イメージの100倍壮絶でした。


わたしは熱心な読者ではないんですが


ばななさんのエッセイなどから

家庭環境の複雑さ(特に母親との関係)は

何となく感じてはいました。


そしてこの記事を読んで、わたしは一回

本気で母を捨てたことを思い出しました。

(捨てるという表現が合ってるかわかりませんが)


母と妹は同居していますが

数年前に2人の関係が険悪となり

母が連日わたしに電話してきまして


ある日わたしは母に


「その家を出て、生活保護を受けろ」


と言ったんですね。


当然母は強烈なショックを受けたようでした。



結果として母は役所に生保の相談に赴き

それを知った妹は前言

(「とっとと出ていけ」

「誰があんたを食わせてやってると思ってんだ」)

を一旦引っ込めて

お互い仕切り直しで同居継続となりました。



とはいえあの時のわたしの対応は

さすがにあまりにもあまりだったよな 

と、言語化までにはいかない思いが

心のどこかに引っかかっていたのですが


ばななさんの記事を読んで自然と

あの時わたしは母を捨てて良かったのだ

という思いがじわじわと浮かんできました。


あの時、母を見捨てることで生じる諸々の可能性

(母の貧困や孤独死、後悔や罪悪感

もちろん批判などなど)

それらが全部起こったとしても

そっくり自分で抱えて生きてやる、と思ってた。


このままではわたしが自分の人生を生きられない

という強烈な想いがわたしの腹を据えさせた

と今なら思います。


それから紆余曲折ありましたが

母を捨てたはずのわたしは母の愛に気づき

それを母に伝えることが出来て


母は母で元夫(わたしの父)のことを

慈しみの口調で振り返るようになり

「死にたい」が「生きたい」に変わり


何よりあの粘着質な依存のエネルギーが消えて

軽い風がそよそよ吹いているような

そんなエネルギーに変わっていました。





ばななさんの記事の冒頭

故ウィリアム・レーネンさんの言葉


「お姉さんが生きようが死のうが

それが君に何の関係があるんだ?」


これを読んだ時に


これが愛なんだ

究極の愛はこれなんだ


と思いました。


見捨てること

確実に葬ること

そしてきちんと成仏させること

(全て自分の中で)


こう思うのは、そして母を一旦捨てられたのは

わたしの看護師体験も大きいかもしれない。


少なくない数の依存症の患者を見て

そして暗い渦に巻き込まれてボロボロになる

周りの人々もかなり見てきた。





だからこそこの一文


それでも、どうしても向いてないことというのはある。


私にとってそれは、人の死を願うこと。

それだけはどうしてもできない。命というものが好きだからだ。


これには自分の中の何かが強く反応する。


何でその優しさの器の中に

自分以外をぎゅうぎゅうに詰め込んで

自分だけ入れていないのか


何で人の死を願う自分を受け入れないのか


命というものが好きなら

なぜ自分の命(お金、時間、エネルギーなど)を

不毛な相手に差し出し続けるのか




と、


この記事だけで

ばななさんを理解したような幻想を抱き

独り言を書く不遜な行為はここまでにします。

(色々な人から同じ内容を

耳が腐るほど聞いているだろうし)



わたしはばななさんの本は好きなのですが

もっと核心に近いコアなファン(?)の方の


「ばななさんの本に救われました」

「ばななさんの本の中に、わたしがいる」


という感想には、正直ピンときませんでした。


わたしには分からない密やかな暗号

隠れたメッセージを理解しているような。



でもその理由が、この記事を読んで

わかったような気がします。


体験?傷?何と表現していいかわかりませんが

(村上春樹さん的に言うと「損なわれる」体験か)

ばななさんの本が奥深く刺さるのは

それが一定のレベルを越えている


という人も、いるのかもしれない。



そういう人にとって


家族の死を願うこと

家族を見捨てること

家族を生きてるうちから自分の中で葬ること


は、自分が死ぬより百億倍怖いのかもしれない。



それでも、生きているうちに

その鎖から解き放たれてほしい


と思う一方で


例えどんな状態で一生を終えたとしても

それはそれで、尊いんだな

素晴らしいんだな

という訳の分からない感覚もあります。



稀有な読書体験だったことは、確かです。