何かを求め続けていたとき。

それは、
至福だったり
哀しみの終わりだったり
全細胞を揺るがすような、すべてが「わかった!」という感覚だったり、
永遠の存在が、どこか自分の外側(もしくは内側)に
きっとあるはずなんだ、それを見つけなければ、という
焦りや情熱の渦だったり・・

そしてそれは、掴んだと思えば一瞬の夢みたいに
儚く甘美な陶酔だけ置き去りにして、ただの記憶になってしまう。
求めても、得られない。
知りたくてもどんな高等な知識や手段も満たしてはくれない。

この渇望、
「私とは何なのか?」
自己探求っていうものは
自分のコントロール出来ないところで始まり、そして終わる。

自分がまだ子どもの頃から、根底にずっと根を張り続けていた、探求という熱。
何をしていても、それが止むことはなく、一時の高揚、安らぎ、またその2倍の苦しみを与え続けた、熱。

なぜ探求、自分自身の正体を知ろうとするのが
これほど苦しくも惹き付けられてやまないのか、
振り返って考えてみると、
この
たった今ある意識そのものから、目をそらし続けていたからだ。
それは、
当たり前に普段「私」と呼んでいる
この顔、声、動く腕、足、呼吸、考え、習慣、記憶、肩書き、名前、感覚、
「私」に見えている世界、見えない世界、、

そのすべてを
見ているもの、
それとして
ただあるものだから。
何を知ろうとも手に入れようとも癒せない渇きは、
目をそらし続けていた
名もない空っぽさに手放される。

在ることそのものに。




《妖精シリーズ》
カンナの妖精を描いた。
真夏に咲く熱帯植物、カンナ。