分離がない、独立して存在するものは何もない、すべてを含む一つ(非二元)を探求していると、

今あるもの。

何の変哲もない、あるがままがそうなんだと浸透してくる。
私の場合はそうだった。
自分の個性や
思い、感情
身体の感覚、
眺める風景に誰かの声、
逆むけた中指のチクッとする痛みや
風邪で少し気だるい熱を感じている頭(って、まさに今なんだけど)・・
そういう全部が、ただあるがままの生命の実感に
現れて消えて、波のように、繰り返している。
現れて消えるものを、味わうことから、
嬉しかったり悲しかったり、辛かったり、苦しかったりと、際限なく経験する。
何かが起こり、それを味わい、流れ消えて、また。
いつの時も、ただ無言のあるがままの存在として、
流れるものを絶え間なく経験している。

非二元ではよく、すべてはただあるだけで、そこに意味は何もないという。
確かに、何かに意味を持たせるのは人特有の本能みたいなものだから、後付けされたものは真実ではない。
でも、だからといって、感情や体験を「そんなものはない」と畳み掛けるように否定してしまうのは、どうなんだろうと思う。

確かに、“あるのは愛と呼べる存在だけだから、表面的にどんな苦しみや嘆きがあったとしても、そんなものは幻だ”という言葉に接することで
安らげる、気持ちが楽になる、という人もいるかもしれない。
でもそれは、
今感じている痛みや苦しみから、一時的に背を向けているのと同じではないだろうか。

自分が探求してきて思ったことは、
どんな目を背けたくなることでも、自分と呼んでいるこの存在はそれを隔てるものもなく、経験せざるを得ないということだ。
今起こっている、どんなものでも。
そこに、「ある」とか「ない」とか「非二元的に」などの思考を挟む余地はない。

外から、蜜柑の木の香りが風に乗って鼻孔をくすぐる。
甘い、蜜柑の匂い。
非二元的に言うと、
木に見えているものがある。
黄色い実が見える。
風がある。
甘い香りのように感じる。
後付けのないそのもの、言葉で表現出来ないすべて。
以上。
みたいな感じになる。
だけど、
流れてくる風、匂い、揺れる木の枝に色付く実のことは、自然な一瞬のなかに、既に知られている。
分離なく認識されている自然なそれを、あえて非二元的知識の言葉で分割して判断することは、意味がない気がするのだ。



こういう飲み物が飲んでみたくて描いたはぁと

ピーチ味ぽい ?