家のなかで、
年中起こっている会話の切れはし。
ちょっと気が向いたので、書いてみる。
・・凄くシンプルなケース。
今にもひと雨降りそうな、曇天のある日。
冷蔵庫からペットボトルを取り出しながら、
私は窓越しに、地面に叩き付ける雨の音を聴いた。
外を見てみる。
「あ、降ってきた」
何気なく口にした私の言葉。
そこになぜか食い付いてくる者が一名。
「それは本当なのか」
「自分には聞こえなかったのに、雨なんか降っているはずはない」
「嘘をついているな」est…
たかが、雨、なんだけど。
そういうやりとりは長年の経験上、スルーするのが一番。
と、わかっていても反応は起こるときに起こる。
例えば、そんなに疑うなら自分の目で窓の外を見れば良いと返す。
もしその通りにした場合、相手から返ってくる言葉は、だいたいこんな感じ。
「今の今まで降ってなかったけど、自分が見たとたんに、降りだした」
だからやっぱり自分が正しいんだと。
・・滑稽な話。ほんと、雨なんかで。
もちろん、
自分を無益ないざこざに巻き込みたくないし、くだらないことで、疲弊したくない。
でも、そんな願いに関係なく、反応は自然に起こる。
スルー出来たり、出来なかったりと。
以前は、「あ~、なんで自分は疲れるだけとわかっていて、言い争いに乗ったんだろう」とか、ベッドでぐったりしながら溜め息をついてたんだけど、
今は起こることは起こるものと思い、後悔は減った。
私の精神世界への興味と探求は、家のなかのこととは全く関係なく、10代の頃からの密かな楽しみだったけど、
今になって、良かったと思えること。
身動きが取れない状況でも、
在ること・意識はいつも自由。
環境でも内面的なことでも、
どうにもならないことは、ある。
それがすべて現れているのが
自分という空間。
だから、必死になって別のどこか、もっと素敵な場所、苦しみのない状態、救われる感覚なんて、探す必要はない。
なにもないところから、喜びも悲しみも、湧き出しては消える。
どんな涙も。
それはいつも私そのもので、
一度も離れたことはない存在。
年中起こっている会話の切れはし。
ちょっと気が向いたので、書いてみる。
・・凄くシンプルなケース。
今にもひと雨降りそうな、曇天のある日。
冷蔵庫からペットボトルを取り出しながら、
私は窓越しに、地面に叩き付ける雨の音を聴いた。
外を見てみる。
「あ、降ってきた」
何気なく口にした私の言葉。
そこになぜか食い付いてくる者が一名。
「それは本当なのか」
「自分には聞こえなかったのに、雨なんか降っているはずはない」
「嘘をついているな」est…
たかが、雨、なんだけど。
そういうやりとりは長年の経験上、スルーするのが一番。
と、わかっていても反応は起こるときに起こる。
例えば、そんなに疑うなら自分の目で窓の外を見れば良いと返す。
もしその通りにした場合、相手から返ってくる言葉は、だいたいこんな感じ。
「今の今まで降ってなかったけど、自分が見たとたんに、降りだした」
だからやっぱり自分が正しいんだと。
・・滑稽な話。ほんと、雨なんかで。
もちろん、
自分を無益ないざこざに巻き込みたくないし、くだらないことで、疲弊したくない。
でも、そんな願いに関係なく、反応は自然に起こる。
スルー出来たり、出来なかったりと。
以前は、「あ~、なんで自分は疲れるだけとわかっていて、言い争いに乗ったんだろう」とか、ベッドでぐったりしながら溜め息をついてたんだけど、
今は起こることは起こるものと思い、後悔は減った。
私の精神世界への興味と探求は、家のなかのこととは全く関係なく、10代の頃からの密かな楽しみだったけど、
今になって、良かったと思えること。
身動きが取れない状況でも、
在ること・意識はいつも自由。
環境でも内面的なことでも、
どうにもならないことは、ある。
それがすべて現れているのが
自分という空間。
だから、必死になって別のどこか、もっと素敵な場所、苦しみのない状態、救われる感覚なんて、探す必要はない。
なにもないところから、喜びも悲しみも、湧き出しては消える。
どんな涙も。
それはいつも私そのもので、
一度も離れたことはない存在。