戦国時代には急激に鉛の需要が高まった。灰吹き法の伝来による銀の精錬や火縄銃の弾丸に大量の鉛を必要としたからだ。このため,国内産だけでは賄えなくなり、その調達を輸入に頼ることになった。当時の弾丸を鉛同位体比により分析した結果,中国や朝鮮,遠くはタイの鉱山で産出したものが確認されている。
鎖国になって海外からの鉛を手に入れることができなくなっても,仙台藩は膨大な鉛を保有していた。仙台藩秘録によれば,宝暦6年(1756年)の時点で,仙台城二の丸兵具蔵だけでも,総計395万9千余の弾丸が保管されていたと記している。

この外に,弾丸原料の鉛のインゴットも所持していただろし,伊達48館と呼ばれた藩内の要害にも相当量の弾丸を備蓄していた。仙台藩が驚くほど大量の鉛を保有していたのは,完全に明らかだ。
鉛のインゴット

仙台藩は基本的に山林を藩有としていて,領内ではいくつもの鉛山を開発し,鉄砲玉の備蓄に励んでいたのである。幕府から言わせれば,とんでもない奴らだということになるだろう。今でも,宮城全県と岩手県南部の旧仙台藩領内には,鉛山の地名がいくつも残っている。その中でも,一番産出量が多かったのは,宮城県栗原市の細倉銅山にあった鉛山だ。文献からは17世紀後半から鉛の産出が始まり、仙台藩一の鉛の鉱山となった。安永の「二迫鶯村風土記御用書出」によれば,「天正年中より掘り方つかまつり候」とある。その開発にあたったのは,「松坂定徳文書」などを勘案検討すると,あくまで推定だが,大坂浪人の可能性が高い。豊臣滅亡後,大坂浪人の山本利左衛門と同志5名が仙台に来て政宗に召し抱えられている。山本利左衛門ら6名は,豊臣方の鉄砲指南をしていた者たちである。山本利左衛門が,鉄砲玉を作り正宗に献上したところ,その鉛山は,御用鉛山となったという。
仙台藩の十匁鉄砲
