大坂夏の陣が終わり太平の世になると,当然ながら鉄砲の需要は激減した。日本有数の鉄砲の生産地だった堺は,その逆境を乗り越え,明治維新まで生き延び続けた。
出典 国会図書館『和泉名所図会』より
その生き残りに力を発揮したのは,堺の鉄砲鍛冶の優秀さと堺鉄砲の信頼性ばかりでなく,異国文化の窓としての堺への憧れもあったかと思われる。江戸時代の人々は,堺に対して今の横浜や東京をあせたような印象を持っていたと思われる。下の写真の鉄砲は,全国各地の砲術家が堺の鉄砲鍛冶に発注して作らせた鉄砲である。
金山城伊達・相馬鉄砲館所蔵
一番上の馬上筒は会津藩士が,その下は四国高松藩士が,それぞれ堺に発注し作らせたものと伝わっている。上から3丁目の鉄砲は,堺の鉄砲鍛冶井上関衛門が製銃した伊予の大津藩士の鉄砲。上から4丁目の鉄砲は,堺の鉄砲鍛冶籃屋権右衛門が製銃した田布施流の鉄砲である。上から5丁目と6丁目は薩摩藩士が堺に特注して作らせた長距離狙撃用の鉄砲である。一番下の十匁筒は,紀州藩士上山善兵衛の発注により,堺の榎並勘左衛門が作った鉄砲である。
また下の写真は,徳川家が堺の鉄砲鍛冶榎並屋佐兵衛に発注した銃身に雲波龍象嵌された総蒔絵銃床の大名道具である。堺の鍛冶集団は,驚くほどの高い技術を持っていた。
三つ葉葵の家紋が八個所に蒔絵された鉄砲
これらの鉄砲を見るにつけ,江戸時代の人々は,南蛮文化の窓口だった堺への強い憧れがあったことを感じる。江戸時代の砲術家にとっては,堺の鉄砲鍛冶に鉄砲を特注することは一種のステータスだったのだろう。またそれは,堺の鉄砲鍛冶集団が高度の技術力を持ち続けてきたからでもある。もの言わぬ鉄砲でも,じっくり観察すれば何かしら教えてくれるものである。


