九州のキリシタン大名で佐伯藩初代藩主の毛利高政公は,鉄砲名人だった。毛利高政公は,朝鮮征伐の南原城の戦いで城門から出てくる敵兵を七町(770m)の距離から,全長278cmの「焔魔王」の筒で狙い撃ちし,一発も外すことがなかったと佐伯藩の正史である鶴藩略史は記している。
毛利高政公の大鉄砲 (佐伯市歴史資料館蔵)
上から順に,
秋風の筒 全長201.0cm 口径1.8㎝
焔魔王の筒 全長277.9cm 口径2.2㎝
四海波の筒 全長281,5cm 口径2.5㎝
また鶴藩略史によれば,高政公は若い頃に津田流砲術を鍛錬し,その秘訣を授けられ出藍の誉れがあったとも伝えられている。津田流砲術は日本最古の砲術流派である。津田流砲術の流祖である津田算長は,根来の僧兵指揮官だったといわれており,根来は,本州で最初に火縄銃を製造した地と考えられている。そして,日本最強の鉄砲傭兵集団だった雑賀衆や根来衆の射撃錬磨に大きな影響を与えたのが,この津田流砲術だったのである。
津田流砲術を学んだ毛利高政公は,大名ながら伊勢守流砲術を創始した。伊勢守流砲術は師匠筋の津田流砲術の影響を強く受けていると考えるのが自然である。 例えば,田布施流から分派した酒井流は,機関部や火挟みが鉄製から真鍮製に代わっただけで,それ以外は大きな違いは見いだせない。
田布施流の鉄砲と酒井流の鉄砲の比較
上が田布施流の鉄砲,下が酒井流の鉄砲
また関之信が,霞流を学んだ後に創意工夫を重ね創始した関流砲術の鉄砲も,霞流の鉄砲と外見がよく似ている。
関流の鉄砲と霞流の鉄砲の比較
上が関流の50匁大筒,下が霞流の20匁筒
このように弟子にとって師匠の影響は,巨大なのである。毛利高政公が創始した伊勢守流砲術には,師匠筋である津田流砲術の影響が色濃く残っていると考えるのが自然だろう。


