一般的な日本の火縄銃は,ネジはたったの一本しか用いられていない。パイプ状の銃身のお尻を留めるたネジ一本だけだ。

だから,火縄銃の整備や分解作業は,木槌と尾栓回しの二つさえあれば簡単に,しかもたちどころに行える。手慣れた人なら二分以内に分解できるはずだ。日本人は,木の特性をよく知っていたから,ネジを用いることなく,台木と呼ばれた銃床に棒状の鋲と目釘ネジだけで,銃身や機関部を留めつてきた。鋲や目釘の方が,ネジを作るより圧倒的に簡単だが,それは,日本人にネジの利用を軽視させてしまった。

ネジを作るのはとても難しい作業なのである。鉄製のネジにもネジ穴にも螺旋の掘り込みを入れなければならない。ネジ製作には、鉄を削り出す優れた工作機械や工具が必要だが,日本人はそれを工夫することはなかった。簡単に作成できる目釘と鋲で十分間に合ったからである。手に入りやすく加工しやすい木材やネジ加工を必要としない鋲に頼りすぎたのである。
長所は欠点も生み出すのである。ネジ製造技術の工夫がなされなかったことが,徳川三百年を通じて革新的な技術発展を成しえなかった一因だったろう。それを最初に気づいたのは,幕府勘定奉行の小栗上野介だった。
(写真引用Wikipedia)

万延元年(1860年)、遣米使節の目付役だった小栗上野介は,西洋文明の原動力は「精密なねじを量産する能力である」と考え、一本のねじを日本に持ち帰ったという。幕府勘定奉行となった小栗上野介は,横須賀に製鉄所や造船所を建設し,後に「日本工業化の父」と呼ばれることになる。
日本海海戦を大勝利に導いた連合艦隊司令長官の東郷平八郎も,「小栗上野介が,横須賀造船所を建設しくれたことが,どれほど今回の海戦に役立ったかしれない。」と述懐している。日本海海戦で活躍した水雷艇・駆逐艦のほとんどが横須賀と呉で造られ,海戦を目前に,多くの軍艦を修理,オーバーホールできたのも小栗が作った横須賀造船所の乾ドックの存在が大きかったからだ。実際,東郷は日本海海戦の七年後に小栗上野介の遺族を自宅に招き,感謝の意を表している。

日本海海戦 写真提供 日本の武器兵器
現代の我々も,幕末を駆けぬいた小栗上野介に感謝しなければならない。あなたの便利で怪奇な生活は,ネジによって作り出されているのだから。