火縄銃の揺り籠  堺の鉄砲と自由都市の進取の気風 | todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り

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    堺の鉄砲と自由都市の進取の気風船船波

 

 国内で火縄銃を量産した地域は,全国に数々あるが,やはり堺の鉄砲が日本の歴史に与えた影響は多大である。中世、自由都市・貿易都市として発展した堺は,人や物,金,情報が集まり,堺の町衆には,新しいことに果敢に挑戦する進取の気風と商機を見逃さない眼力が鍛えられていったのだろう。

 「鉄砲又」と呼ばれた堺の商人,橘屋又三郎は、種子島に鉄砲が伝来したと聞くや,いち早く種子島に渡り鉄砲製造技術を持ち帰った。これも堺の商人らしい商機を見る目によるものだ。しかも堺は貿易だけでなく,古墳時代から金属の集散地で鍛冶師や鋳物師が多く住む金属の町でもあった。堺が火縄銃の製造と販売で名をあげたのも,金属産業の下地があったからである。さらには紀州根来から名工の芝辻清右衛門が移り住んだことも堺の隆盛に拍車をかけた。

 

               堺筒と呼ばれる堺の鉄砲      

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また、堺は,鉄砲には欠かすことのできない火薬原料の硝石や弾丸原料の鉛の日本最大の輸入港だった。堺には鉄砲製造とその販売のための下地が備わっていたのである。まさに堺は,日本の火縄銃の揺り籠だったといっていいだろう。

明治になり,火縄銃の需要が激減すると堺の鉄砲鍛冶は,その技術を生かし自転車の修理や部品製造に活路を見出し,鉄砲から他の金属産業に暖簾を書き換え,見事な生き残りを見せた。堺市は、現在も自転車や部品の製造で、高いシェアを誇っている。火縄銃の技術は,今も堺の町の中で息づいているのである。きっとこの技術基盤を持つ堺の技術者や商人たちは,いつかまた日本全国に名をはせるようになるかもしれない。