堺の鉄砲(堺筒)は,今も堺に息づいている。
火縄銃の揺りかご,自由都市と進取の気風
国内で火縄銃を量産した地域は,国友,薩摩,仙台など数々あるが,やはり堺の鉄砲が日本の歴史に与えた影響は多大である。中世、自由都市・貿易都市として発展した堺は,人や物,金,情報が集まり,堺の町衆には,新しいことに果敢に挑戦する進取の気風と商機を見逃さない眼力が鍛えられていったに違いない。
後に「鉄砲又」と呼ばれた橘屋又三郎が、いち早く種子島から火縄銃製造技術を持ち帰ったのも、この気風によるものだ。しかも堺は,古墳時代から金属の集散地で鍛冶や鋳物師が多く住む金属の町でもあり,堺が火縄銃の製造と販売を行ったのも金属産業の下地があったからである。さらには紀州根来から名工の芝辻清右衛門が移り住んだことも堺の隆盛につながった。
堺 筒

また、堺は貿易港として火薬原料の硝石や弾丸原料の鉛の輸入窓口だったことも手伝い、鉄砲生産及び販売処点として有名になった。一説によれば,長篠の戦いで織田家が使用した火縄銃のうち二千五百挺は、堺でつくられた堺筒だったという人もいる。堺は鉄砲の受注生産だけでなく既製品を大量生産し、諸国の大名家への出張売込みにも力を入れていたという。
堺の鍛冶銘の刻まれた火縄銃八丁を持っているが,そのうちの六挺は薩摩,紀州,伊予,備前などからの注文銃だった。堺の鉄砲としての特徴が,完全にみられたのは二挺だけだった。これも,堺の鉄砲鍛冶の優秀性と販売力が他を圧していた一つの証だと,私は,考える。
堺筒と呼ばれる火縄銃の特徴としては、銃口部分にラッキョウ型や八角型の飾りを配し、銃床下部には金色の飾り金を貼り付け、銃身に象嵌を施すなど装飾性の高い作りをしている点にその特徴がみられる。胴金にも装飾が施されたためか胴金が異常に太いのも,他の地域の銃は明確に異なる点である。工芸品のように装飾が多くなったのは、鉄砲需要が減少した江戸時代に、他の生産地との差別化を図ろうとした結果であろう。

胴金にも施された装飾 装飾性の高い銃床
明治後,堺の鉄砲鍛冶は,その技術を生かし自転車の修理や部品製造を行い、現在も完成車と部品の製造で、高いシェアを誇っている。火縄銃の技術は,今も堺の町の中で生きているのだ。
参考文献 (あいうえお順)
日本の古銃 総論編 澤田平著
日本の火縄銃1,2,3 須川薫雄著
日本の武器兵器 須川薫雄 www.日本の武器兵器.jp/part1/火縄銃