津軽藩炮術家作成の行軍図 (写し) | todou455のブログ 火縄銃ときどき山登り

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   津軽藩炮術家作成の行軍図  (写し)

  昔も沿岸警備は,武士の重要な努めだった。

 
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  安政元年(
1855年)1月には,ペリーが前年に引き続き江戸湾に再来。33日(新暦331日)には日米和親条約が締結され,12月にはロシアと日露和親条約が締結されるなど,異国船への防備が叫ばれ,時代は攘夷論で沸騰していた。東京大阪間は,徒歩で早くとも17~8日はかかるが,蒸気船なら3日でつないでしまう。のんびり過ごしていた江戸の人々には驚天動地の出来事だった。蒸気船の出現により,日本を取り巻く海は防壁にはならなくなり,蒸気船があれば,日本のいたるところが攻撃される可能性が発生していたのだ。 
江戸時代後期の仙台藩の林子平は,海国兵談の中で次の通り述べている。
江戸の日本橋より唐(から)、阿蘭陀(オランダ)まで境なしの水路なり』
「海国兵談」の中で特に有名な一節だ。私はその言葉をもう一度考える必要があると思うのである。

  
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  この巻物は,安政七年三月、沿岸警備のため青森県西部の平舘に築造した西洋式御台場へ向かう津軽藩の行軍図で総人数701人が描かれおり,その長さは12メートルある。津軽藩炮術家の木村忠蔵が、軍勢配置の備忘のために描いたものという。

  ただし,何らかの事情により作成された写しであり,原本ではありません。ですから,ブログアップは控えていましたが,今回のレーダー照射問題があり海防を考える一助になればと思いアップしました。