早朝の海で遊ぶ子どもたち。フィリピンのカオハガン島にて

 

 

みなさんは子どものころどんな遊びが好きでした?

私は実はインドアタイプで、図鑑を眺めたり、図鑑の絵を描き写したり、つたないひらがなで物語を書いてホチキスで本にしたりして遊んでた記憶があります。虫取りとかザリガニ釣りは好きでしたね。カメとかハムスターとか飼うのも好きでした。あと、自転車も。大人数でちゃんばらごっこみたいな激しい遊びはそんなに好きじゃなかった記憶があります。

そう考えると、いまの僕がやってることと似てるなあって、思います。拙い文章を書いて本つくってるし、釣りも好きだし、バイク乗ってるし、夏になると雑木林に虫がいないかなあなんて見に行っちゃうし、カメ飼ってるし、人類400万年の歩みみたいなフルカラーのイラストいっぱいの大判の本とか見るの好きだし、やってること、子どものころから変わってねえぞ、みたいな。

一方で、大勢でギャーギャー騒ぐのとか、ひとまえで目立つのとかは、いまも好きじゃないんですよ。

たとえばカメのお世話って、動物に興味がないひとには単なる飼育当番みたいな業務になっちゃうじゃないですか。でも僕にとっては遊びだった。つまり僕はそれを楽しいと感じてやることができた。

ってことは、人間生まれながらにして、自分の得意なことというか、やってて苦じゃないことは楽しく感じられるし、それはそのまま遊びという形でくり返されるようにできているんですね。

人間社会は遊びでできてるんだなんていう、ホイジンガというオランダの歴史家が書いた『ホモ・ルーデンス』って名著もありますし、その思想を継承しつつアップデートする形で書かれたフランスのロジェ・カイヨウの『遊びと人間』なんて名著もあります。ホモ・サピエンスというのは賢いひとという意味ですが、ホモ・ルーデンスとは遊ぶひとという意味です。遊ぶのが人間の本質だというわけです。

脳科学的にも最近は、脳は単なる学習装置じゃなくて、予測器としての機能があるんじゃないかといわれています。すごく大雑把にいうと、外からの刺激に受動的に反応したりそれを蓄積しているだけではなくて、脳は能動的に、自分の生まれもっての好みに従って必要な刺激をとりにいっているということなんですね。

脳科学が発達する前から、観察が得意なひとにはそれが直感的にわかってました。それが教育者の教育者たるゆえんだと思うのですが、モンテッソーリ教育の創始者として有名なイタリアのマリア・モンテッソーリは、もともとお医者さんなんですけど、障害のある子どもたちをよく観察するなかで、子どもは遊びをとおして自分を教育しているんだと気づくんですね。それで自己教育力という言葉を使いました。

子どもは生まれながらにして、自分で自分を教育するプログラムを内蔵されていて、身体的な発達やまわりの環境に合わせて、そのときどきで必要なプログラムを作動させると。それが「遊び」という形で発現するんだというわけです。海外ではプレイワークという学問が体系化されているくらいです。

でも、「どんな遊びをさせたら子どもの能力が高まりますか?」って考えるのは問いの設定がそもそも間違っています。その子がやりたくてうずうずしちゃう遊びをしたときに、それがその子にとってのかけがえのない学びになるということです。

だから、叱られるとわかっていてもやりたくてしょうがない、いたずら、おふざけ、ずるというのは、おそらく広い意味では、その子の成長にとって必要な遊びなんですよね。

社会生活を営むうえで、やっちゃいけないことというのはありますから、それはおいおい学びつつ、一方で、「いま、この子にとって必要なことを、この子なりに一生懸命学ぼうとしているんだな」というおおらかなめで、子どものいたずらやおふざけを見る余裕が大人の側にあるといいんじゃないかと思います。


※2026年3月19日のFMラジオJFN系列「OH! HAPPY MORNING」でお話しした内容です。