たとえば50分間のドキュメンタリー映画を見たとする。

 

Aさんは、登場人物がどこでどんなセリフを言ったのか、どこでどんな服装をしていたのかなどを事細かに記憶しているが、その映画が何のためにつくられたのか、作者が観客に何を訴えようとしていたのかを、あまり理解できない。

 

Bさんは、映画の中のこと細かなことはいちいと覚えていないけれど、映画全体から伝わってくるメッセージ、問題意識をしっかり受け取り、自分の価値観と照らし合わせてものすごく感動したり、考えたりできる。

 

これを学校の授業に置き換えてみる。

 

Aさんは先生の言ったことを逐一覚えていて、テストでいい点が取れる。Bさんは、先生が授業に込めたメッセージをしっかり受け取り、人生の糧にすることができるが、テストではいい点が取れない。どちらがいいのか。

 

いま日本の教育は、Aさんに有利なしくみだ。BさんよりもAさんのほうが「できる子」と言われる。

 

もしも学校に「テスト」がなかったら。

 

先生たちが自分の教科について純粋に面白いと思うことを毎回の授業の中でいきいきと伝えることができる。生徒たちは毎日6時間、目を輝かせて幅広い教科の授業に参加しているだけで、相当な「人生の糧」すなわち「教養」が身に付くはずだ。

 

しかし実際には「テスト」がある。

 

「テスト」のための授業が行われる。それでは生徒たちの純粋な好奇心をとらえるのは難しい。しかも、仮に生徒たちがどんなに目を輝かせて授業を真剣に参加していたとしても、「テスト」の点数が悪ければ、授業に真剣に参加していたことが評価されない。それでは授業に真剣に参加しようとするモチベーションも下がる。

 

誰の中にもAさんとBさんがいる。子供たちの中にいるBさんを、黙らせ、ふてくされさせ、無力感を与えることは、社会にとっての大きな損失だ。

 

授業を聞き、学習した結果を知るひとつの指標として「テスト」を行うことは悪いことではない。でも「テスト」があることのデメリットがメリットを上回ってしまうのであれば、少なくとも親は子供に覚悟を決めてこう言うべきだと私は思う。

 

「テストの点数は気にしなくていいから、一生懸命授業に参加しなさい。先生の話を聞いているだけでも、毎日1つや2つ、必ず面白い話があるはずだから。それだけで十分学校に行く価値はあるから。テストのための解説ばかりでつまらない話しかしない先生の授業の間は、好きな本でも読んでいなさい。それもダメだと言われるなら、頭の中で好きなことを考えていなさい。それもダメだと言われるなら、そんな授業は無理して出なくていい」

 

先生たちは、生徒が毎日授業を受けた成果を、テストの点数だけで判断しないでほしい。テストが苦手な子に対して、「せっかく授業を聞いているのに、なんでテストで点が取れないんだろう」なんて言わないで、「テストでいい点が取れなくても、先生の授業は聞いているだけでもためになるから大丈夫だ」と堂々と伝えてあげてほしい。

 

そうすれば、学校は知的に楽しい場所になり、社会全体の教養レベルも格段に上がるはずだ。……と、ときどき妄想するのである。