『あの日から13年・・・「臨床心理士との再会」』 | fadoおじさんのblog~明日の君に~

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子ども達の未来を共に考える、小さな個別指導の学習塾の先生fadoおじさんのblogです。

 あの日から13年・・・。今でもなお2万9000人の方々が避難を余儀なくされています。私たちは、絶対にあの災害のことを風化させてはならないと思います。7年前に投稿したblogの記事を再投稿いたします。

謹んで被害に遭われた人たちへの追悼と一日も早い復興を心より願います。

 

 『銀灰色の北上川はゆったり流れていた。遅い雪が舞い、ようやく咲いた岸辺の梅が凍えている。山裾の平地にぽつんと建築跡が残っていた。宮城県石巻市の大川小学校。東日本大震災による大津波84人が避難中に亡くなった。今は、以前はなかった震災伝承館や慰霊碑が整備されている。ねじり倒された鉄筋コンクリートの柱、泥水で埋まった天井・・・。

傷跡を残す校舎の向こうから、張りのある男性の声が聞こえてきた。語り部として経験を伝えている只野英昭さん。

「災害はいつどこ起こるのか分からない。二度と悲劇を繰り返さないため、辛い体験こそ伝えなければならないのです」(道新「卓上四季」より)』

 

 『北上夜曲』作詞:菊池 規 作曲:安藤 睦夫 歌:倍賞 千恵子

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 匂い優しい 白百合の

 濡れているよな あの瞳

 想い出すのは 想い出すのは

 北上河原の 月の夜

 

 宵の灯(ともしび)点(とも)すころ

 心ほのかな 初恋を

 想い出すのは 想い出すのは

 北上河原の せせらぎよ

 

 銀河の流れ 仰ぎつつ

 星を数えた 君と僕

 想い出すのは 想い出すのは

 北上河原の 星の夜

 

 僕は生きるぞ 生きるんだ

 君の面影胸に秘め

 想い出すのは 想い出すのは

 北上河原の 初恋よ

 

 プロローグ・・・。

 

 私は「臨床心理士」のM君に無性に会いたくなり、私の携帯電話に残されていたM君の電話番号に、「おそらく変わっているだろうな~」と思いながら電話をしてみました。すると、「はいMです」という懐かしい声が聞こえてきたのです。

 

 2017年、12月16日(土)20時、私は、ワクワクしながらM君との待ち合わせ場所に向かいました。先についていたM君がベンチから立ち上がりお互いの顔を見合わせた瞬間、17年の時が一挙に短縮されました。

 

 予約してあった大衆イタリア料理の店の向かいに座ったM君は「○○先生お元気でしたか。私は今このような仕事をしています」といって一枚の名刺を出しました。

 

 ○○○○大学 博士(臨床心理学) 臨床心理士

        心理科学部 准教授 M〇 R

 

 中学校の時(私の塾に来た時)自分の生き方を見つけました。

 

 M君は、にこやかな表情で「あの時(中学生)、先生の塾で、自分の人格の基本ができて、今も、自分の行動の骨格になっています」と話してくれました。

 私が最初に勤めた会社の上司、Iさん。頼まれた仕事を完成させIさんに見せに行くと、間違えていても「ここは少し違うような気がする。もう一度、考えてくれるか」と、私に考えるチャンスと完成への道筋を教えてくれました。私は、この上司から、頑張れば乗り越えることの出来る可能な目標を与え、それを乗り越えてきたものに、また目標を与え、その積み重ねから大きな目標を達成させるという事を学びました。

 当時は、そのことを生徒たちの指導に役立てていたのです。M君はその指導について「先生は、決して簡単に答えを教えず、少しだけヒントを与え、じっくりと考えることを教えてくれました」と話し「それが今のわたしを形成している」とも語ってくれました。

 

 私が、彼に大学生講師をお願いしていた時のこと、人気のあるM君が責任者をしてくれていました教室は、生徒が増えて、小さな教室だったので座席のやりくりが難しくなっていました。私はヒントだけを与え彼に解決策を考えさせました。これは、優しさと人当たりの良いM君が、実は物凄く負けず嫌いな性格を見抜いていた私の出した課題でした。1週間後、M君は見事にこの問題をクリアしてきました。

 このような話で、盛り上がりました。その後、彼が、遠くを見つめるような眼をして、とつとつと話してくれました・・・・・・・。

 

 ~ 6年間、福島の地で『臨床心理士』として、汗と涙を流した、名もない若者の詩 ~

 

 『臨床心理士』M君との再会』

 

 福島の某医科大学の「臨床心理士」と博士論文完成への日々。

 

 M君は2008年3月に大学の修士課程を修了し、その年、4月に博士課程へと進み、研究に明け暮れする日々を送っていた。そんな時、福島県立の某医科大学医療人育成・支援センター助手のオファーを受け、2009年、大学院博士課程に席を残しながら、奥さんを伴って福島に行くことになったのだ。実践と博士論文の完成に向けて頑張る日々・・・。

 2010年、遂に博士論文が認められ、見事M君は「臨床心理学博士」となったのだ。

 

 2011311日 東日本大震災。

 

 博士になったM君は、2011年3月11日、大学院(博士課程)卒業式のため、福島に奥さんと子供を残して、札幌の母校にいた。卒業式も終了して、皆と話が弾んでいた時・・・。あの、恐ろしい『東日本大震災』が起きたのだ。テレビで見る、東北の恐ろしい映像、M君は奥さんに何度も電話をした。電話がつながって泣き叫ぶ妻の声。すぐに福島へと戻る決断をした。周りの友人や教授は、『もう少し状況がわかるまで待っては?』と言う声を振り切り、彼は、福島へと向かった・・・。

 

 福島・・・燃える使命と志を抱いて。

 

 空から見る海岸近くの景色、「瓦礫と化す建物」「流される車」。M君の車も津波で流されていた。

福島の大学病院では、被災地へと救援に駆けつけるべく、希望者を募り医療チームが編成されました。福島以外の県は他の県からのボランティアが居たのだが、福島は、自分の県だけで救援隊を組まなければいけなかった。

 

 『参加するかどうかは各自の判断に任せる』との責任者の話に、M君は「ここで自分が行かなければ自分が自分でなくなる」と判断したのだ。そして、自分の言葉に自分を奮い立たせ、真っ先に参加の意思を表明した。『国から出る情報は信じることができない。「何があっても自己責任だ」・・・』。奥さんと子供を札幌に戻し、福島に一人残った。医師、看護師、薬剤師、臨床心理士(男性しか参加できなかった)の編成で、海岸沿いの体育館などで助けを待っている人たちの基に駆けつけることになった。

 

 車は海岸沿いの瓦礫の中を住民が避難している「体育館」に向かった。昨日まで楽しく過ごしていた家族を一瞬にして失った人たち、行方不明の家族を心配している人たち。避難している人たちはストレスの限界に達していた。避難所に入っていった彼らを待ち受けていたのは、ストレスから浴びせられる辛辣な言葉・・・。しかし、M君は、臨床心理士としてその言葉を受け止めてあげるしかなかった。そうして、現地に何日間も泊まり込み「心の治療」をしたのだ。帰りの車の中では誰も口を開かない・・・。沈黙の時間は続いた。

 

 そんな、嵐のような一か月が過ぎ去っていったのです。

 

~「ふるさと」に心を残しながら、他の土地で頑張っている方々、被災地で、歯を食いしばって復興に尽力されている方々~感謝と敬意をもってこの歌を捧げさせてもらいます。

 

 『ふるさと』 作詞 作曲 歌 松山 千春

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 喫茶店でほほづえついて

 誰か待つよなふりをして

 タバコの煙目にしみただけ

 こぼれる涙ぬぐうともせず

 いなか者とは悟られぬ様

 3杯目のコーヒー頼んだ

 いくら何でも3杯飲めば

 それもしっかり飲みほせば

 店の雰囲気冷たい視線

 気まずい思いかみしめて

 いやだいやだとつぶやきながら 人の波にのまれる

 

 夢なら今もこの胸の中

 深くとじこめたまま 深くとじこめたまま

 

 緑の電車とびのる様に 街は灯りをともしだす

 電車の窓に息をふきかけ 指でなぞった故郷と

 おされて気づきあわてて消した 小さく書いた故郷

 電車を降りていつもの道を

 ひとりトボトボ歩きだす

 幸せそうに灯りがもれる 一家だんらん笑い声

 淋しくはない 空を見上げた 星はにじんで輝く

 

 夢なら今もこの胸の中

 深くとじこめたまま 深くとじこめたまま

 

 急いで捜す公衆電話 百円玉の黄色いやつ

 声がきこえる父さん母さん 強く受話器握りしめ

 帰りたいさ今すぐにでも それがいえずにそれじゃ又

 

 夢なら今もこの胸の中

 深くとじこめたまま 深くとじこめたまま

 

 

 1986426日。旧ソ連ウクライナで発生した人類史上最悪の事故、チェルノブイリ原子力発電所4号炉の爆発。大量の放射能が発生し、その風下に位置したベラルーシに流れ間もなく悲劇が始まりました。その時、甲状腺がんに苦しむ人々を救うべく立ち上がった一人の日本人。菅谷昭(すげのやあきら)さんのことは、以前「志の高さ」(823日)の拙ブログでも、紹介させていただきました。

 信州大学医学部の外科医師だった菅谷昭さんは、単身ベラルーシに渡りました。そして、たった一人の戦い始まったのです。彼の高い手術技術や、患者との交流に心を打たれていく若い地元の医師たち。いつしか菅谷さんのアパートに若い医師たちが集まりました。そして、菅谷医師は、勉強会を開き、集まってきた若い医師たちに自分の技術のすべてを伝えたのです。

人間一人の出来ることには限界があります。志に導かれて集まってきた若い医師たち。そして、菅谷先生は、彼らを育てることが「究極の役割」と考えたのではないでしょうか。

  

 福島での「使命と志に燃えた」熱い日々。

 

 M君の避難先へ、そして、心に傷を負った人々へのカウンセリングの日々は続いた。最愛の家族を失い、家を失い、土地を失い、そして、放射能の不安との戦い。避難所に住まわれている被災された方たちの心の傷は、彼の予想を遥かに超えるものだった。彼の専門は、成人対象の「認知行動療法によるアプローチ」。彼は、ひたすら、彼が学んだ技術を生かし、被災された方々の心の叫びに耳を傾けたのだ。最初は心を固く閉ざしていた被災された方々も、何度となく訪れる彼の熱意に心を動かされたのでしょう。少しずつ心を開くようになっていった。そのような「使命と志に燃えた熱い日々」を送っている彼の心に、瘡蓋(かさぶた)のように張り付いた、一つの気がかりが脳裏を離れなかった。それは・・・「自分はどうなってもいい・・・しかし妻と子供たちの安全は・・・」彼は決断したのだ。

 

 妻と子供たちと共に仙台への移住。

 

 震災から数か月たって福島も少し落ち着きを取り戻したように見えたとき、彼は家族と共に仙台に移住した。これは、妻と子供たちを守るための「苦渋の選択」だった。そして、彼自身は、毎日仙台から福島へと新幹線を利用し通ったのだ。当然、病院に泊まり込んで仕事を続ける日も何度となくあった。彼には日曜日も祝日もない。彼の心の大半を占めていた思いは「被災されている方々には日曜日も祝日もない!」という熱い「気持ち」だった。そんな『時』は6年も続いた。

 

 自分一人で出来ることには限界がある。

 

 福島で彼の「臨床心理士」としての熱い日々は続いた。心に深く傷を負った人たちへのカウンセリング、その間、日を追うごとに仕事の量は増すばかり。毎日毎日が戦場のような忙しさ、そんな中、来る日も来る日も頭の中にあるのは彼を頼りに来てくれる人々のことだった。身も心もズタズタになりながら「熱い志」だけが彼を支えていたのだ。

 

 そんな時、頭をよぎったのは「自分一人の力には限界がある」という事だった。この考えは、風船のように彼の心の中で大きく膨らんでいったのだ。

 

 そうだ「『志の高い』若者たちを育てよう。

 

 「自分一人の力には限界がある」そう思う心は日増しに大きくなっていった。「自分のように『志』を高く持った若者たちを育てよう」。今、日本中いや世界中で、子供から老人まで「心に傷を持った」人々があふれかえっている。そんな人たちにそっと寄り添い、「心のケア」ができる「臨床心理」の専門家の必要性は多くなっている。

 

 母校の大学で「臨床心理士」を育てる。

 

 教育(臨床心理士を育てる)の必要性を強く感じていた彼に、一通の手紙が届いた。それは、母校からの「准教授」のオファーだった。彼は迷うことなく、そのオファーに応じたのだ。それは、彼が福島の大学病院に着任してから7年後、2016年のことだった。

 

 今、彼は、毎日、母校の准教授として70人の学生を相手に授業を行い、週2回、母校の大学病院の「心理臨床・発達支援センター」のスタッフとして30名ほどの人たちの治療にあたっている。また、研究にも忙殺されているようだ。日曜も祝日もなく・・・。

 

 

 M君へ・・・。

 

 あなたが、中学生の時、私の塾に来たことも、医師から臨床心理士へと方向を転換したことも、福島の大学病院にいて、震災も含め大勢の人々のカウンセリングに従事したのも、今母校の大学病院で若者を育てながら発達支援センターでカウンセリングを行っているのも、全てあなたに与えられた「使命」であると私は思っています。

 あなたは、先日、私に「今、私が生徒たちを指導している原点は中学生の時、○○先生に教えられたことを忠実に実行していること」と言ってくれましたね。でも、あなたは、既に、私なんかより「ずっとずっと高みに」存在していますよ。

 

 あなたが、これから様々な「志の高い」生徒たちと巡り合うときのために、次のような「道元禅師」の言葉を贈ります。

 

 感應道交(かんのうどうこう)

 

 「師との出会いは自然にあらず」、決して自然必然の因果ではなく「感應道交」である。「発心するものの発心の機が、まさに時を得て、個我を超えたものに逢着するのが感應道交」、運とかツキとかのレベルで子弟の出会いは語れず、心から求めて歩く者と、伝えるべき志の師とがめぐり合ってはじめて、おおぅと呼応し、結実の結縁とでも言える出会いが実現するのだ。(松田晃演「ギターは小さな星のオーケストラ」より)

 

 感應道交:仏と人間の気持ち、または、教えるものと教えられるものの気持ちが通じ合うこと。