政治家にも黒幕は存在する。この頃の政治とは戦いであったから、そのことは粛清をも意味する。この国を裏で動かした16人だ。
宇多天皇というと意外に思われるかもしれない。そこには菅原道真が関わっていて個人的に興味を持てた。本当は天皇も菅原家もオモテなのに藤原氏に牛耳られるとウラになる。藤原氏こそ政治の中心となって天皇は傀儡政権となってしまった。もともと菅原家とは官僚の家系だったらしい。千年も経ているから今現在とは異なっているのは当然だが、とはいえ我が家も公務員か医者や看護師かの家系で江戸後期から明治維新以降にかけて通っている。梅鉢の行方は京都から太宰府。騙し合いは現代の政治家も同じ。
本郷和人教授がお得意の鎌倉ネタは興味を持って読めた。例えばNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(2022)なんて今更ながら蒸し返してくる。北条政子は北条義時の姉で、やはり中心は北条義時であったことは確か。大河ドラマを見た人は中原親能と大江広元を覚えているだろうか。実はあの二人、兄弟なのである。大江広元は中原広元と言って三位以上は苗字のために昇進できなかったので、あえて苗字を変えることに。京都から下る官僚は珍しい。平家が中心の京都から逃れることになった。大江となって昇進。
しかし、その昇進はやはり北条義時からすれば気に食わないので「それ以上に昇進すると殺す」と脅されていた。もともと北条氏は吹けば飛ぶような家柄。家柄の弱さを脅迫によってカバーしていたのである。そして源氏が間違いなく関わっている。もともと源頼朝の父親である源義朝は京都から落武者のごとく東国にやって来た。その時、波多野氏にお世話になる。その波多野氏の邸宅があった秦野市には源実朝の首塚があるという。その横の碑に金槐和歌集に出てくる一句、母が子を思ってくれないことが書かれている。つまり源氏は三代将軍で途絶える運命だった。北条政子は結婚しても、もともと北条氏なので源氏より実家の繁栄を優先した。家制度なら頷ける。その北条政子は伊賀の乱においても、恐らくは「伊賀の方を殺してこい」と命令したに違いないのだ。
やはり凶悪な姉弟で然るべき運命なのだ。自分の立場が危なくなると必ず人が死ぬ。リアルなサスペンス劇場となっている。源頼家も北条時政と謀ったに違いない。その立場は回を追うごとに北条義時が中心となる。北条義時はもともと北条氏ではなく江間義時と名乗って江間氏の初代になるはずだった。兄弟の後継者候補が次々に殺害されると、のし上がっていく。北条義時の死後も北条政子が権力を握っていたあたりは三浦義村をもひれ伏させる実力を持っている。恐らく伊賀の乱も三浦義村と謀ったのだろう。
そして北条重時またの名を極楽寺重時といい、おもに数ある中の北条氏の中でも極楽寺流は得宗家に次ぐナンバーツーである。私は極楽寺よりも北条氏の方が気に入っている。だいたい極楽寺と言い切ってしまうと「寺」なのか「江ノ電の駅」なのか、ごっちゃになってしまう。大河ドラマにも登場した鎌倉幕府三代目執権、北条泰時の孫、北条経時が四代目執権となるが、執権になれなかった北条泰時の息子と同様に大病を患い亡くなってしまう。これまた20歳にも満たず五代目執権となったのが弟の北条時頼だ。
宝治合戦において三浦泰村が率いる三浦一族を壊滅させると、それより以前に京都の六波羅探題に向かわせた北条重時との双頭政権となっていた。京都の官僚らも次々に解任させ鎌倉に口出ししないように謀る。その後、北条重時は鎌倉へ向かい連署として鎌倉幕府においてナンバーツーの地位を築いた。京都の天皇中心主義とは当時の先進国である中国から由来したモノ。日本人にピッタリそのまま合う訳ではなく不完全だった。鎌倉幕府は天皇を大覚寺統と持明院統に分けて競争させるなど、その後の南北朝時代に突入する原因にもなり得るが、しかし、それでも北条義時の時代から見ればかなりマシになった。北条重時の娘をもらった北条時頼に息子が生まれる。それが八代目執権の北条時宗である。七代目執権の北条政村を挟んで、それぞれ北条時頼が明月院に、そして北条時宗が円覚寺に眠っている。大河ドラマでは母親にくっつきまわっていた北条政村も、実は貴重な執権の北条氏となる。
その後の三宝院賢俊と三宝院萬済に関しては日野家の出身と来て「ああ!」と思うぐらいで、あとは足利将軍家に纏めたことしか分からず、また軍師の黒田官兵衛や千利休なんてよっぽどの大河ファンや茶道の人間でないとよく分からないし、もはや専門書の域に達して来た。とはいえファンなら読めるだけあって本郷和人教授のことだから分かりやすい説明に終始するもののマニアックな色を出してきている。私とて、それほど歴史という観点で興味がある訳ではなく、当初は時代を知るために手に取った感じだ。
ただ最後の西郷隆盛は結構、頷ける。今現在で言うなら「テロ」や「クーデター」といったところだろう。金品強奪に市民殺害など数々の悪行を繰り広げている。もともと徳川慶喜が大政奉還を実現したのは朝廷に良い人材がおらず、やはり結局は徳川抜きで政権を取れるはずがないと踏んだから。そこが徳川慶喜の目論見であったが、ただ野蛮な薩摩藩には手を焼くほど。いちゃもん付けては三田の薩摩藩邸に帰る。仕方ないから幕府軍は三田の薩摩藩邸を砲撃。これが西郷隆盛の手で「やったなこの野郎!」と言いがかりを付けて開戦する。征韓論も西南戦争も本当は西郷隆盛が黒幕だと言う声もある。今時の若者は、がお得意の口癖の連中に嫌でも聞かせてやりたいぐらいのエピソードだろう。昔の若者の方がよっぽど怖いよ。これだけ血の気が盛んだと無関心世代は恐らく、いなくなるんだろうな~と思う。平和主義というよりも平和ボケした日本の現代では、たぶん明治期の常識は通じない。
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