私は『バカの壁』『死の壁』『超バカの壁』『自分の壁』『遺言。』と順当に読んできた。今年は「人はなぜ、ゴキブリを嫌うのか」も出版され、あれから4カ月ほどで随筆が出版された。いわゆる『身体巡礼 -ドイツ・オーストリア・チェコ編-』の第2弾。
欧米は明るく理性的な世界観だと思っていた。それは誰しも一度はあると思う。私だって青山学院大学に行けば、女子は多いし、楽しい洒落乙な雰囲気だと思ったことだろう。自分のことなのに、あまりよく分かっていない。結局、相手のことは分かるけど、意外に自分のことは分かっていない。理不尽なことを言う人は、この人は自分のことを言ってるんだな、と思えばいいことが分かる。
「変わった奴」「頭がおかしい!」「なんでお前みたいな奴が存在しているんだ!」
これらは家族がおかしいと言って全員で精神科に診てもらったら、言ってた本人が最もおかしい人物であることが分かった、というエピソードさえある。本人が一度は言われたことがあるからこそ出るセリフで、たいていは現実と真逆のことを言えばいいのか。
ナンバーワンよりオンリーワン → オンリーワンではなくただの人
日本人は親切だ → 日本人は親切なことをあまりやらない
分かってる → 分かっているか不安/分かっていない
知ってる → 知らない/知っているか不安
人にウソをつくな、正直でいろ、という教えの方が、実は間違いだったのでは?とさえ思われる。だったらいっそのこと、日本ではウソをつく方法とか、人を乗せる術だとか、世間に折り合う方法を学んだ方が良い。そして私の脳の中でもついに合点がいった。
「生女房」のところも「歴史はいよいよ美しく感じられた」というところも、分かってくる気がした。ゾゾゾッと身の毛がよだつ。やはり夏目漱石が『坊ちゃん』で言いたかったことは近代化への警鐘だったのか。
今ならよく分かる。つまり骸骨を見ていると、自分が何を思うか、ではなく、骸骨が語り掛けてくるのだろう。それが大阪弁の「ジブン」につながる。下町方言では「手前」で、侍であれば「己」になる。それがいつの間にか下町では「てやんでえ!手前が何だってんだバーロー!」といった酔っ払いオヤジのセリフになり、侍用語は自分だけの正義となって「オノレ…許さん!」になる。
江戸時代までは自分と相手を切らなかった。それが現代ではすっかり切ってしまった。要するにフランスやイタリアやスペインやポルトガルやブラジルなどといったラテン系の要素を日本人はかつて持っていた。言い換えれば、それほど真面目ではなかったということだ。それがなぜか、ドイツやオランダのように論理重視になってしまった。鉄鋼などの製造業で経済発展したことに魅力を感じるからだろう。
もともと真面目というのはドイツ人やオランダ人などのゲルマン系民族のことを指すのであり、だからプロテスタントという一神教が出来上がる。私も卒業旅行でフランスに行ったことがあるし、そういったラテン系民族の国では一神教ではない。イエス・キリストは神だ!とは言わない。小鳥と話すことが出来た聖フランシスコもそれなら神だし、聖母マリアも神だし、雄大な自然も、我々にある魂も神だということになる。
これが北海道のアイヌ人で言えばカムイということになる。なぜその音楽が好きなんだ?とか、なぜそのスポーツが好きなんだ?とか、いくら聞かれても、自分でさえ答えが見つからない。こういうのを強制了解といって答えをひとつに絞ってしまう。しかし、それらは計画して出来上がるものではなく、自然だからキリスト教風に言えば「神のご加護だ」としか言えなくなる。
新約聖書を読めば「人が湖を渡った」とか「海が真っ二つに割れた」とか「汝姦淫するなかれ、さもなくば目玉を抉れ」とある。結局こういうのは嘘ばかりで、だからこそ、罪深い人間として受け入れるしかない。だいたい姦淫しなくてどうやって子供が産まれるんだ、と現実ではなるだろう。それにはイヤらしい想像をしなくては出来るはずもない。そもそも子供がまったくいない修道士や司祭が全員なわけがない。
養老孟司・元東大教授は森の中がよく似合う。オイラもいつか暇を作って鎌倉の建長寺に行き、虫塚に手を合わせて来たい。やっぱり、確かに虫取りは楽しかった覚えがある。カブトムシにクワガタムシ、だけではなくなんじゃこりゃー!という虫もたまにはいる。そこは私は昆虫オタクでないから、ゾウムシとかマニアックな虫はよく分からない。でも昆虫採集は夏休みの思い出。
もともと白黒ハッキリしたヤツ(シャンシャン 2歳 ・上野動物園) ↑
動物の習性を直すのは難しい。なぜなら自然だから。それと同じで、他人の好みを変えることは不可能。変えるのではなく、変化する時には、自分が変わるのである。それが脳ではなく体にある、ということ。そりゃあそうだ。子供の時の自分と、成人の自分が同じわけがない。18歳とか20歳というのはだいたいで決まっているだけで、人それぞれ違う。例えば私はチビだし、大きくなる時に足が痛かったし、声も17~18歳まで変化せず、ソプラノが出せたので高校の音楽の授業でも目が点になる奴がいる。なんてキモい声を出しやがるんだ、と。もちろん、クラスで仲が良く分かっている奴には問題ない。こいつはまだ完全に成長期に達しておらずテノールが出せない、と。
今でも母親や姉の影響で美容院に行って、男女混合になった美容院とはいえ、やはり店長の感覚でヘアスタイルは決まる。中高は私立だから、規則で長髪はダメだ、とか、あーでなきゃいけないこーでなきゃいけないというのがウザかった。ぶっちゃけていえば、今でもヘアスタイルは伸びてくるとこんな感じ。一目見て子供。下手すりゃ、コンビニやディスクユニオンのレジで私を見るなり10代を押しているんではないか、というぐらいに。まず刈り上げというのもあまりやったことがない。トニックシャンプーではゴワゴワになってしまうので、姉が好んで使っているLUXの同じ種類を今でも使っている。このように個性は発揮せずとも、元からあるものなのです。
無理矢理、他を変えようと思っても、なかなか難しい。それが自然に行けば分かるもの。東京の従妹が24歳で他界したのも、あれだけ強烈なメタ・メッセージを受け取れば何かが変わるだろう。それは自分が変わるということで、だから葬儀の後では隙を見て棺をあけて「持って帰るー!」とか言いだしたたしい。母親も姉も後ろでギャンギャン言っている。「持って帰っても腐るだけだ」とか「浅ましき臭き香」になるまで置いておけない、とか、色々ある。私も法律的に持っておくことは死体遺棄になると分かっている。それでも許せなかった。
短い人生というのが許せないのか。しかし、それはサルにもあって、子供が死ぬとミイラになるまでおんぶしている、という。やはり、死が本当に悪いことだけなのか、と今振り返って分かった。死ななければ、恐らく殺すぐらいでないと人が死ねなくなるだろう。そうすれば小保方晴子氏のSTAP騒動もみんな気づかなかったのは、論文が捏造云々よりも「細胞を初期化する → 夢の若返りを図れる」ということからして間違っているのではないか。しかも、それを誰も恐ろしいことだと思わない。神の領域を超えて生物は計画的に変えることが出来る、ぐらいに思っているのではないか。ならば時間が戻せるはずで、細胞分裂は逆行しないから、初期化はロボットやパソコンやスマホでもない限り不可能であろう。初期化は最初からそうなることを計画しているのであって、人間はそうではない。
部屋にこもっていないで外に飛び出してみよう。パソコンやスマホの情報なんて元のソースは変わらないんだから、変化はしない。書き加えられるか、修正したり、間違っている情報はなかったことにして消されるだけ。しかし、それでもこうやってネットに張り付いているということは、自分は変わりたくない、相手を変えたい、ということなのだろう。私も常々サイトで記事を出している身でありながら反省。






