近文ー帝国陸軍旭川第七師団 | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

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残り少ない余生をテキトーにいきていくブログ
◇監修 左上野 老鶴 ◇GM 経田野 横鋤 ◇照明 当代元 蔵志
☆余生を送っている人間が書いている記事ですので、恐縮ですが
 「記事更新頑張りましょう」といったコメントにはお返事できま
  せん。

●その1:旭川から一つ函館寄り、近文駅のお話

先日の「歩王」様のレポートの通り、むかーし、近文駅から第7師団敷地まで専用線が

伸びておりました

***地図ー1)左1912-1916(大1-5)年頃の近文、右現在

●大正年間の地図には、現代にない鉄道線が、はじめ近文駅から東へ、後北東に伸びているのが

  見て取れます。

  その専用線の終点部分を拡大した地図を下に載せます。第7師団の練兵場に出ます。

***地図ー2)地図ー1の東部分の拡大図

◆近文からの専用線終点と、第7師団司令部兵営の中央ー西側が入っています。

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●近文は昭和30(1955)年に旭川に合併されるまで「近文村」で、産業らしい

  産業は村はずれ「江丹別エタンベツ地区」のそば栽培くらいなものでした

   (そーとーレベル高いけどね)。

  このころ、近文村は「年間60度の温度差がある村」をキャッチにしていましたが、

  旭川と合併後は使えなくなりました。「シメシメ」と以後は、道東の陸別町が

  使っています。 

  ※「江丹別」地区は旧・深名線、幌加内近くにもあります。

   「幌加内そば」も有名なので非常にややこしい!!

●軍用鉄道線をこんな都心から外して敷設したのは、兵員、武器、弾薬など軍需品の

   輸送を人目に触れさせたくなかった(国家機密だよ#)んだヨネ。

  ケド、分岐駅は師団司令部と至近距離であることも条件(付近の物資集積、

  人の流通中心が旭川だった)だったでしょーから、「近い!目立たない!!」分岐駅に

  「近文」が選ばれたのは、ごく自然であった思われます。

  # 戦前の「呉線」では列車に憲兵が常に乗り込み、呉軍港が近づくと、乗客全員に

   客車のヨロイマドを下ろさせ、港の様子がわからないよう列車を通していました。

   目的はモチロン、スパイの写真撮影などの阻止です。

●「国鉄・旭川―近文ー納内オサムナイー深川」間は途中に渓谷・神居古潭という難所を控え

    戦後も遅くまで複線化が遅れていました。

  下の時刻表で

  深川ー納内7.4kn:腹付複線化、昭和39(1964).10.

    (滝川ー深川間は、妹背牛モセウシー江部乙7.5kmを最後に昭和41.9.24に複線化完了)

  納内ー近文20.8km:別線複線化→18.8kmに短縮、「神居古潭」駅廃止,昭和44.9.

  近文ー旭川4.0km:腹付複線化、昭和43.9.

  

●帝国陸軍第7師団のオハナシ

  他の徴兵制師団と異なり、開拓・対ロシアの警備も担当する「屯田兵」を基幹として

  誕生しました。明治大帝が「だいしちしだん」と御発声されたことより、

  敗戦に至るまで「だいしち」が正式名称であります。

  1894年日清戦争が起こった1年後1895年、「臨時第七師団編成」、さらに続きます、

  1896年、「札幌」に陸軍第七師団開設、1897年、北海道も徴兵制となり

  札幌に新編師団開設、第七師団旭川に再移転・・・もーやめます

 

●第七師団司令部ー都心・旭川駅との交通は?:下の路線図を「司令部前」まで

  現在の地図でたどれば、5km強になりました。 

  はじめ、「上川馬車鉄道」が使われていましたが

  (地図ー2で南ー東に斜めに横切るのが「上川馬鉄」)、大正6年、「シベリア出兵(*)」で、

   師団に<満州守備命令>がだされ、4月から、1/4コ師団(=歩兵1個聯隊=約3000名)が

  順次旭川から出征、本格的出征は大正8年からでしたが、それでも経済的基盤が

 弱い馬鉄の「金庫ジジョ―」を揺るがすのには、十分大ごとだったらしく、上川馬鉄は

 大正7年、さっさと「閉店」してしまいます。

 

 また、時代は前後しますが、本師団は、日露戦争の「ヤマバ・旅順要塞攻防戦」の

 最後に「帝国陸軍の切り札(オーゲサすぎますがほんとーーです)」として投入されました。

 重点目標の一つ・二○三高地攻めで、第七師団の「7」は<203÷7 = 29>と割り切れるので

 きっと、第七師団は二○三高地を「割って」落として、敵を「ニク」にフンサイするであろうと

 ・・・まぁ、事実はそーなったわけですが、これってよく「旧軍は精神論で劣悪装備を補い」

 とかゆー以前だよネ・・・

 

   *シベリア出兵:第一次世界大戦中から、王制ガタついて、連合国で唯一連戦連敗。

   ついにロシア帝国がホーカイ。ロシアの共産化を恐れた欧米列強各国は、

   シベリアに出兵しますが、どこも大戦の片手間で、兵力はせいぜい5000程度がやっと。

    そこで列強国は、地理的に近い日本に応援を頼みます

   日本は、列強に追いつくチャンスとばかり、旭川第七師団、小倉第十二師団を含む

   7.3万人を派兵。結局、ソビエト連邦が生まれ、共産化を阻止できなかったところで

   列強国は引き揚げますが、日本は駐屯し続けます。

   これがまずかった。「領土的侵略心」「国家予算の無駄遣い」と内外から批判の嵐。

   戦死者、3000余ー5000?(数字隠匿の可能性あり、1/3個師団程度が有力)、

   戦費を、当時の邦貨で4.5億とも9億(##)ともいわれるほど費やして、得るところなく撤兵。

       例によって、閣議では問題にされた金の問題も、「責任」はサイシュー的にドッカいっちゃって

      ・・・今もそーだぜ・・・びっくりしないよ!!!

      (##)当時の貨幣価値は現在の1/2000→4,5-9億は9000億ー1兆8000億

      そりゃ、国民怒りますわ・・・

 

 

 ●「上川馬車鉄道」の次代のノリモノは?

 次に付近一帯の交通網を受け持つのは、「旭川市街軌道」ですが、そんなわけで、同社は

 上川馬鉄を電化したものや、改組更新、名義変更した組織ではなく全くの別会社であります。

***旭川市街軌道路線図

路線名

・四条線:四条一丁目 - 十七丁目 2,4km S4(1929)開通

・一条線:八条十五丁目 - 曙通 3.1km S4

・近文線・旭川駅前 ー 司令部前 ー 一線六号 6.1km S5

 

途中路線の改廃があり、昭和31(1956)年6月9日全廃となっています。

・S23.4.7:一条線全線と四条線の九 - 十七丁目を廃止

・S25.7.5;近文線の神社前 - 競馬場前を直線化、旧・司令部前回りの路線を廃止

最終路線は

・四条線:一丁目 - 九丁目・ 

・近文線:駅前 - 市営球場前 - 一線六号

 

なお、輸送人員最多は、戦前;昭和18年ー1083.1万人、

                戦後:昭和22年ー 617.1万人(S20,21年記録欠)

廃止前年昭和30年ー520.9万人(昭和4-11年は300万人台、昭和12年、23-29年400万人台)

 

●偕行社の件

***写真)偕行社→現・旭川市彫刻美術館

偕行社は師団将校の親睦・研究の団体で、機関誌の発行を行い、建物の内部に

食道、宿泊施設、売店、会議室などが設けられました。

「社長」は歴代師団長、参謀長、副官、連隊長クラスの部隊長が職務を補佐しました。

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竣工は1902年、日露戦争の前々年。場所は、現住所ですと「春光5条7丁目」。

地図ー2)の「練兵場」北側の「歩兵營」のさらに真北の地図枠ギリギリに小さく

「偕行社」の字が見えます。

設計は臨時陸軍建築部、施工は大倉組。

木造2階建、桟瓦葺。擬洋風建築。国指定重文。

 

建築デザインが、近文駅プラットホーム待合室(近文の信号所から駅への昇格は1911年)

の意匠にとりれられていることは、先の「歩王」様のレポートにありました通り。

 

●現在ではなくなった、優等列車の「江部乙」「納内」「神居古潭」上り列車退避停車のオハナシ

***時刻表ー昭39(1964).10.1.大改正、函館本線・下り(抄)

さて、お話もイヨイヨ最終段階・・・

当時の国鉄は・・・

この地区の主力、函館本線と言えど近代化が遅れていて、このページでは

先にもお示ししましたが

倶知安ー南小樽60.8km:単線

南小樽ー滝川115.7km::複線

滝川ー深川23.1km:単線

深川ー納内7.4km:39.10.1に複線になったばかり

納内ー旭川24.8km:単線

となっており、行き違いのため、このページでは

江部乙で第4かむいが20:54(上り急行D・大雪が深川発20:42、深川ー江部乙は妹背牛通過で13分

                            江部乙通過20:55ころとすると時間が合います)

納内で第3かむい」が 20:31(上り大雪の深川到着が20:41、納内通過が約8分前と考えます)

退避列車が出ています。

※今は亡き「幌内線」が掲載されています

 

このほかにも、サンロク・トオでは

納内に急行「天北*第二はまなす」11:24停車

・・・上り「急行オホーツク*宗谷」が深川に11:29到着しており、同列車を退避

神居古潭に急行「オホ-ツク*宗谷」17:50停車

・・・上り特急「おおぞら」が旭川を17:30に発車。これを退避(神居古潭まで所要約20分)

 

これらは「上り列車では発生しておらず。常に通行は上り優先であったようです。

かくもレンメンと下り列車はしーたげられてきた、とユーお話でありました。

 

また半世紀前は、線路容量の関係でしょうか?多層階列車が多く、乗降客が見込まれない駅にも

優等列車と言えど停車を強いられ、「スジ屋さん」も大変だったことでしょう。

今ほどの列車頻度でなかったことが唯一の救いでありましょーか?だらだらと長くなりました。

 

 

最後までお付き合いいただきありがとう存じました。

 

参考
●blog「歩王」様  歩王のLet'sらgo
【まったり駅探訪】函館本線・近文駅に行ってきました。2020-01-14
https://hama-sush-jp.pro/aru-king/entry-12566923527.html

●地図ー1,2)「今昔マップ」様 旭川 1912-16(大正1-5)年

あshttp://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=43.039599&lng=141.381855&zoom=13&dataset=sapporo&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

 

●「滝川ー旭川」の複線化記録 時刻表に見る<国鉄・JR>電化と複線化

         発達史 三宅俊彦 氏 他著 JTB CanBooks 2011.3.1

●「旭川市街軌道」路線図;日本の路面電車Ⅱ、廃止路線・東日本編 pp26-27

     「旭川市街軌道」原口隆行 氏著 JTB CanBooks 発刊日不明

●「偕行社」:「偕行社」西洋館の履歴書~北海道~pp358-,下村 仁 氏著

        創英社/三省堂書店 2011.2.7.

●時刻表

「39-10、函館本線下り時間表(抄)」時刻表完全復刻版 1964年10月号

          JTBのMOOK 2019.10.1

昭和36年10月改正時刻表を楽しむ本 三宅俊彦 氏著 洋泉社MOOK 2011.9.5

 

おまけ

近文の由来 アイヌ語ーチカブンニ:鳥のいるところ

 

 カラスのクンセイ 拝