始めに、また要領の悪さから、2分割になってしまいましたことをお詫びいたします。
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●台車装架カルダン方式・続き
B .すでに絶滅してしまった駆動方式
◆1.垂直カルダン駆動方式
日本の「神鋼電機」が昭和29(1954)年に開発した方式で、電動機を垂直に立てた状態で台車装架す構造。
かさ歯車を利用する点は直角カルダン駆動に類似するものの、中間歯車を加え、カルダン継手の代わりに
伸縮軸(垂直軸)を用いて車軸の変(偏)位を吸収するといった、狭軌鉄道にも向いた、狭い台枠内に
カルダン駆動システムを収めたい・・・といった意欲があったようにおもいます。
前回ご紹介しましたように、当時は、コンパクトで力のある電動機を作る技術がなかった我が国の電動機
メーカーは、1輌の電動機出力を60-75kwx4台(2台)/輌と比較的低出力とする代わりに、全電動車編成と
しました。
こうすることで、数で稼げば低出力の電動機を作っても何とかエーギョーになりそうです。
ところが、そういった電鉄会社、電化区間が増えて参りますと、都心の変電所が過負荷で参ってきました。
まー、その辺はうまくできておりまして、次第に、電動機もコンパクトで強力なのができてきます。
もーダイブ古い話になってしまいましたが、東京・山手線にカナリア色の90系(←101系、とのちに改称)、
昭和32年の出場当初は100kwx4/輌、主電動機はMT46A,、加速度3.2km/hr/sec、の8輌全電動車編成。
それがやはり次世代103系(オレンジ、昭和38年、110kwx4/輌,MT55)ともなりますと、全電動車編成では
電氣ばかりショーヒして不経済であると 、4M4Tとなり、加速度も2.0km/hr/secと落ちこみました。
この落ち込みは近距離電車にはそーとーコタエタようで、一部でダイヤの見直しも行われました。
しかしながら、もうこのころになりますと、日本の新性能電車は安定期に入り、すっかり一人歩きするまでに
なっておりました。
そー考えますと、「狭い台枠内に、通常のカルダンドライブシステムを組み込むことができた」
垂直カルダンですが・・・
- ******<図ー2、垂直カルダン駆動方式>******
- ,

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- ①結局「継手構造」を全廃することはできず、
- しかも、動力が、モータ→垂直軸→車軸と2段階に伝わっていきますので、
- □垂直・平行カルダンよりエネルギーロスが大きく、
- □結局構造が複雑化
- □モーターを縦置きにしたため、機械油が、線路・枕木上に飛び散ったようです。
- ②なぜか?日本式でうまくいかない時は、往々にして、欧米から、見本が沢山流れてきて、
- 日本の大手企業が吸収。そーして、いつの間にか、国内の鉄軌道会社への売り込み合戦から、
- 国産品が安定供給されるまではあっとゆーま。
- ③失礼ながら、、せっかくのアイデアであった「1)純国産、2)スペース制約の厳しい軽便鉄道でも
- 使用可能な機構」とゆーのも、大手企業が寄ってたかって、新性能電車の製作に当たる一方で、
- 片や、「神鋼電機」さん一社が頑張ったとしても、開発・販売・・・いろいろな分野で後から大きく
- 水をあけられたでしょー。
- そして、上の①にお示しした欠点がはっきりしてきますと、「かつては大型で狭軌車輌台枠に
- 入りきれないと思われていた平行/直角カルダンの弱点」が解消されたともなれば、そのあとは、
- これらのカルダンシステムの国内使用に問題が出て来るはずもなく、そちらに目が行って
- しまったのは、当然の結末であったかと思われます。
- しかし、そんな中、もろともせず、果敢に「国産仕様」を取り入れようとしていた鉄道をご紹介
- いたします。
- A:淡路交通での試用
昭和28(1953)年から当時の運輸省の補助を受け、昭和29年には淡路交通の協力を得て、同社鉄道線
モハ2008号(昭和10年日本車輌製ガソリンカーを、昭和25年に電車に改造)を、垂直カルダン式に
再改造しております。
台車は国鉄仕様台車を垂直カルダン仕様に改造。神鋼電機製のTBQ-25形主電動機(56kW)4基を
搭載、一応の成績を収めたものの、淡路交通の垂直カルダン車はこの1輌で、実験的要素が強い
使い方だけにとどまりました。
モハ2008は淡路交通が鉄道部門から撤退した昭和41年10月1日からほどなくして、廃車・解体されて
おります。
*淡路交通の電車運転は昭和23年2月1日から。
B:(栃尾鐡道→)栃尾電鉄→越後交通・栃尾線では、最盛期8輌の垂直カルダン車が活躍
1950年代、まだ日本国内には762mm軌間の軽便鉄道が多数残存しており、その中には当然電化鉄道も
ありました。当時の技術では、通常のカルダン駆動方式は軽便鉄道への導入は不可能?と考えられて
いましたが、垂直カルダンだけは問題なく搭載可能と思われました(*)
新潟県の栃尾鉄道(1956年栃尾電鉄に改称。1960年に長岡鉄道(**)、中越自動車と合併し越後交通
栃尾線となります)は762mm軌間の軽便鉄道で、昭和24(1949)年に電化(***)され、気動車改造の
電車を主力として運行されていましたが、1956年に神鋼式垂直カルダン方式の導入に踏み切ります。
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(*)762mm鉄道の電動車の主電動機は大抵2個モータで、13m級ともなりますと4個搭載車もありました。
すでに当時、栃尾線では、モハ209にツリカケx2、垂直カルダンx2を搭載、192kwを得ていました。
ですから、車体長など 大きくとれば、平行カルダンは無理としても、垂直カルダンは搭載可能で
あったと思われます。
#######
(**)田中角栄氏が昭和25年から、一時期長岡鉄道の社長をやっておりました。
その時彼を中央政界に誘ったのが「小佐野賢治」氏。
田中真紀子氏は現職の「越後交通取締役副社長」。
(長岡鉄道→)越後交通長岡鉄道線が平成7(1995)年廃され、越後交通の鉄道事業が終了
「来迎寺ー西長岡2.0kmの貨物専用線」が最後まで残っていた区間であります。
昭和44(1969)年、廃線となった定山渓鉄道から、一旦長野電鉄に移籍していた
「ED5100、昭和32年製造、50ton、200kwx4」が昭和54年、当鉄道に移って廃線まで働きました。
長岡鉄道は1067mm鉄道線で昭和3(1928)年、国内で初めてディーゼルカーを使用した鉄道として
有名です。スピードアップのため全線を昭和26(1951)年電化しましたが、どちらかというと、旅客部門は
常に「イマイチ」で、昭和47,50年と全線を2回に分けて、旅客営業を中止、結局貨物鉄道になりました。
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(***)終戦後の一時期、「石炭」が異常に高騰した期間がありました。
国鉄も昭和22年の後半、優等列車がまったく走れない時期がありました。もっと困ったのが、地方の
蒸気動力の小私鉄。時節柄「ガゾリン、ディーゼル燃料」もそんなに安くない時期です・・・「ぢゃ、電化
しかあるまい」とばかりに、(淡路交通・栃尾鉄道以外には)大和鉄道・弘南鉄道・下津井鉄道・大井川
鉄道・流山鉄道・秋田中央交通・栗原鉄道・十和田鉄道・松尾鉱業の場合は、全線を電化して
おります☆。
☆「私鉄の電化旋風とその影響」様 http://ktymtskz.my.coocan.jp/sitetu/s7.htm#0
◇栃尾線の垂直カルダン車履歴
☆☆Wikipedia 越後交通栃尾線から
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E4%BA%A4%E9%80%9A%E6%A0%83%E5%B0%BE%E7%B7%9A
①モハ208号:昭和17(1942)年製。草軽モハ103号を昭和25年譲受。
昭和31年6月、従来の吊り掛け式42kWモーター2個を廃して台車は在来品を流用改造、
神鋼電機TBY-25A主電動機[2個を装備して、当線最初の垂直カルダン車となります。
②モハ211号:クハ30号を昭和32年4月に3m車体延長。13.6mの大型とし、江ノ島電鉄譲受]の中古
台車を762mm軌間の垂直カルダン仕様(55.95kW×2)・ローラーベアリング付に改造
して装備、モハ211号と改番。当時、直接制御車のみであった栃尾線電動車で、
本車は初の間接制御車(HL制御車)となりました(連結総括制御運転可能車の登場)。
③モハ212号:昭和32年12月に東洋工機で製造された「新車」(就役は翌年)。
この車両はモハ211に続く13.6m車で、大きさを除けば当時の大手私鉄
電車にも見劣りしない近代的な外観、垂直カルダン駆動方式を搭載。
④⑤モハ200,207:昭和34年、台車流用で垂直カルダン化(モハ207は3.2m車体延長して13.6m級と
なっています)。上記モハ208と同形車、元・草軽100形の譲受車。
⑥⑦⑧モハ213-5号、昭和38年
213号と、215号スタイルの近代的垂直カルダン車が増備。
台車は、東洋工機が当時路面電車向けに多用していた、バーフレームで
簡素ながらトラスを組ん近代的構造の台車を新製。
214号は同系ですが、こちらは東急車輛製造が製作。。
この結果、215号が就役した昭和39年時点の栃尾線では、10輌あまりの電動車のうち8輌が垂直
カルダン車となり(改造・新造各4輌)、吊り掛け駆動車や気動車改造タイプの車体装架カルダン車は
電装解除で付随車化が推進されました。まとまった輌数の垂直カルダン車を継続して導入し、運用した
栃尾電鉄→越後交通線は、この方式の電車をある程度使いこなしていたものと考えられます。
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<栃尾線> [長岡]----------=====[上見附] 刈谷田川 見附市
| |
[悠久山] [栃尾}
*************************最盛期は悠久山ー長岡間は40往復程度の運転がありました
栃尾線:悠久山(桜の名所)-長岡ー上見附(刈谷田川に架橋できず見附市に入れずー栃尾
それでも1度は頑張って上見附を見附市内に
近づけた
そのためストロークの長いスイッチバックが出来ました。
・昭和48(1973)年4月16日、上見附・栃尾(10.4km)、悠久山・長岡(2.8km)部分廃止
・昭和50年、長岡・上見附13.2kmの廃止で、栃尾線全廃
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軽便線としては総括制御、CTC導入など今後も西の「下津井電鉄」とともに更なる発展が期待され
ましたが、両鉄道とも、道路整備によるモータリゼーションが活発化しますと、いかに優良車輌を運行中
と申しても、輸送単位が小さい車輛群の集まりですから、ひとたまりもありません。下津井では奇しくも、
栃尾より1年だけ早い昭和47年、国鉄・茶屋町ー児島間14.5km(全線の約2/3)が部分廃止となりました。
(全線廃止は1991年)。
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栃尾線ではこれらの大型車増備・改造や、昭和36年の(長岡・上見附間)CTC導入に続き、電車の
運転を基本的に[電動車+付随車]から[電動車+制御車]へup-gradeをおこない、終着駅と、
「スイッチバック構造の上見附駅」で必須だった「機廻し作業」を解消、HL式間接手動制御器、
AMM自動ブレーキの装備による総括制御の固定編成化を計画します。軽便鉄道としては本邦初で、
極めて画期的な改善目標でしたが、電動車1輌に付随車2~3輌を常時連結して固定編成とする場合
(Mc-T-Tc or Mc-T-T-Tc)、出力の余裕が求められ、栃尾線で標準であった1台車1個モーター搭載・
1輌2個モーターの垂直カルダン車は非力さが問題となりました。
□栃尾線における「垂直カルダン」時代の終焉
越後交通は栃尾線用に、昭和39(1964)年と同41年に212形の増備形である216号・217号を東洋工機で
新製しましたが、これらは外見こそ212形と類似ながら、いずれも吊り掛け駆動方式(日立製42kW
主電動機4個仕様=定格出力168kW相当)で製作されました。
昭和41年から開始された付随車との固定編成を組んでの総括制御運転において、垂直カルダン車
(定格出力約112kW相当:先のツリカケ車の2/3の出力)の出力不足が運用上障害が出てきたためで
ありました。
昭和41-42(1966-67)年には台車流用で217号並みの大型新製車体を持つ制御車クハ102-104を増備
するなど、1960年代の短期間で栃尾線の近代化は急速に進みましたが、急激なモータリゼーションに
対抗すべき有効な手段など持ち合わせようもなく、栃尾線は、昭和40年代中盤に躍進が期待され
ながら、結局昭和50(1975)年までに全線が廃止されました。
同線の電車は垂直カルダン車も含めて全車廃車され、譲渡や他社再起、保存など、第二の人生?を
与えられた車輌は皆無でした。
C.近鉄合併前三重電氣鐡道、 C-1:志摩電氣鐡道→志摩線1067mm軌道、
C-2:四日市鉄道→三重線762mmk軌道、の場合
シマデン・モ5401は
近鉄雑感ー志摩電氣鐡道の「垂直カルダン」は「なぜ必殺の近代兵器となりえなかったか??」1/2
http://blog.ameba.jp/ucs/entry/srventryupdateinput.do?id=12156991319,2016.5.4
にも関連記事がありますので、御面倒でもそちらをご参照ください。
神鋼電機の地元である三重県の三重交通(鉄道部門は昭和39(1964)年に分社して三重電気鉄道と
なり、昭和40年に近畿日本鉄道に合併)でも垂直カルダンを導入します。
こちらはまず1,067mm軌間の志摩線向けとして、近鉄との合併以前である、昭和33(1958)年、
日本車輌製モ5401号1輌を投入しました・・・
以下「近鉄雑感ー志摩電氣鐡道の「垂直カルダン」は「なぜ必殺の近代兵器となりえなかったか??」
1/2 に続きます。
続けて翌34年には、四日市地区の762mm軌間路線である三重線(現在の湯の山・内部・八王子線)に、湯の山温泉周辺の観光開発を目的として、斬新な3車体連接車のモ4400形1編成を日本車輌により
就役させます。4401(M-1)-4401(T-1)-4401(M-2)、10m級x3。
モ4400形は湯の山温泉への観光輸送に主力車として用いられましたが、三重電気鉄道時代の
39年、湯の山線が近鉄合併を前に1,435mm軌間に改軌されると、同じ三重電気鉄道の北勢線に
転用されます(当初は内部・八王子線への転用が考えられていたようですが、オーバー・
キャパシティーで湯の山線への転用となったそうです)。
□近鉄の垂直カルダン車のミセジマイ
旧・三重交通の車両のうち、
志摩線のモ5401の最後までは:引き続き
近鉄雑感ー志摩電氣鐡道の「垂直カルダン」は「なぜ必殺の近代兵器となりえなかったか??」1/2
をご覧ください・・・
昭和40年4月1日の近鉄合併時に際しては、モ200形201・202+サ100形101に改番されました。
駆動システムは新製時より神鋼電機製垂直カルダン式TBY-23を主電動機として
4401(M-1)・4401(M-2)の運転台寄り台車に各2基ずつ軌道面に対し垂直に裝架。
ただし、軽便鉄道用で床下高さが低く台車上面のわずかな空間にギアボックスを納めきれず、
所要の空間を確保するため運転台直後の床面がやや持ち上げられ、客用扉内側にステップが1段
設けられました。
この特徴的な駆動システムは狭い空間に無理をして収めてあった上、整備時には事実上完全
分解を行う必要があるなど保守上難点が多く、カルダン駆動化によるメリットをそれらのデメリットが
上回っており、本系列が10年余で電装解除になってしまった大きな原因の一つとなりました。
しかしながら、その後も垂直カルダンのメンテナンス問題は解決せず、結局本形式は昭和46(1971)年
に電装解除が実施され、]ドアエンジンを含む客室設備はそのままに、モ200形201・202が運転台を
撤去されサ200形201・202へ改造されました。この際、連結器が従来のピン・リンク式から通常の
3/4サイズのCSC91自動連結器に交換されています。
以後、直接制御式のモニ220形に牽引されて使用されていましたが、昭和52(1977)年より開始された
北勢線の近代化事業において、本形式は新造のモ270形]と総括制御の貫通固定編成を組むことと
なり、サ202の旧運転台が6年ぶりに復活し、同車はク200形202に改番されました。
平成15(2003)年の近鉄・北勢線から三岐鉄道への移管に伴い、本形式も同社籍へ編入され、
最終車番は「三岐サンギ<Tc201-T201-T202>※」となりました。
※「三岐鉄道」の元々の計画は、「国鉄・富田から起工、岐阜県・関ケ原付近を目指した」といわれて
おります。ですから・・・とゆーワケでもないんでしょーけど、「読み」は「サンギ・てつどう」であります。
□□垂直カルダン機構がしりすぼみに終わった原因と申しますか、
屁理屈のよーな、私の独りよがり解釈のマトメ
その前に「Wikipedia垂直カルダン方式」が衰え、ついえた原因を正統派分析で書いてあります。
是非そちらの方↓をご一読ください。確かにこれをご一読いただくと後何もお読みいただかなくとも
十分と思われま↓す。
①新興メーカーの参入困難
②外来方式(平行・直角)カルダン方式の適応が意外と容易だったこと
③技術自体の問題
************************************
スイマセンがまた字数が足りなくなりました。
ここまで読み進んできて来てくださった方、お礼とお詫びを再度ながら
申し上げます。
近鉄雑感ー志摩電氣鐡道の「垂直カルダン」は「なぜ必殺の近代兵器となりえなかったか??」2/2 了
カラスのクンセイ 拝
あともう少しなんですよ、ほんとに・・・