◎大坂冬の陣まで
関ケ原の戦い以後、慶長8(1603)年、将軍宣下、江戸に幕府を開府した徳川家康さんで
ありましたが、その後も豊臣方勢力は衰えたりといえども、まだまだ侮りがたい強大な存在
だったのです。
家康さんの本心は案外、豊臣の残党が「豊臣藩?」とでもいった1大名に収まっていてくれれば
いーのになー、と漠然とした気持ちがなかったわけではないよーですが、
豊臣方主戦派は豊臣恩顧の大名たちが中心になり、
秀吉さんの子、秀頼君を頂きつつ、隙あらば「いつでもくーでたー」をおこし、
幕府転覆をねらうべく水面下で活発なカツドーをしているようです。
そして、一旦戦いが、起こると「徳川などに落とせるか!!」と言わんばかりに巍巍呼と
聳え立つ大坂城・・・いざとなれば抜け道もあるぞ・・・(ほんとーなのだろーか?・・・)
〇皆様の<大坂城抜け道 or 抜け穴>情報お待ちしております!!
いまだ政治・経済・法制がしっかり固まったとはいいがたい幕府の基盤。
このころは、まだまだ、はじまったばかりの江戸の政庁、不安材料をたくさん抱えておりました。
ですが、そこは、さすが、家康さんであります。
病魔に苦しめられながらも(死因は胃癌とも?・・・天ぷらに当たったとも?)ただ指をくわえて
いらっしゃる御仁ではありませんでした。
豊臣氏を中心とした大坂方に神社仏閣の整備をはじめとする、経済的圧迫などを
常にあたえつづけたのでありました。
そこに、降ってわいたような、家康さんが泣いて喜びそーな「一大イベント」、世にいう
「方広寺・鐘銘事件」が起こるのであります。
方広寺なる寺、京都・東山に豊臣秀吉さんが、木造の大仏像(毘盧遮那仏ビルシャナブツ)
とともに文禄4(1595)年建立したものでした。
しかし、翌年、不幸にも、地震で全壊・全焼してしまいます。
家康さんは、豊臣一党にこの大寺の再建を命じました。
慶長17(1612)年、めでたく再建なったはずでしたが・・
高さ4.2メートルの大きな梵鐘の銘文の一部に
「国家安康」「君臣豊楽」と書かれていたのが
「家康の名を二つに裂き、豊臣が楽になるということでにゃーかね?」
と家康さんはヒートアップ!!
(はぇ?!・・・尾張弁と三河弁は違う・・・・愛知県の皆さん、スイマセン)。
しかし、そこに「イチャモンのネタ」を見出した家康さん、
やっぱりくすぶっていた「豊臣勢殲滅
」という想いがフツフツ+ふつふつとわいて参ります。、
結局、そのバクハツが、慶長19(1614)年10月から12月20日まで行われた、
「方広寺事件」の後に起こってしまう武力衝突、「大阪冬の陣」であります。
この「大坂冬の陣」、寄せ集めの軍勢である豊臣方は一枚岩ではありませんでしたので、
戦法などで、「籠城組」と「野戦組」と分裂するなど問題がないわけではありませんでした。
それでも、野戦派・真田幸村の「籠城組」との折衷案であります、「出城・真田丸」の
造営に伴い、数ある合戦中、徳川方の前田利常を主将とする部隊を撃退、唯一
勝ちを収めました。
そこで、家康さん、一気にショーブを決めたかったのでありましょーが、
「やはり、落ちぶれたとはいえ、さすが、豊臣勢、一筋縄では片付かんわ。
ここは一旦、講和を結び、堀を埋めさせるなどして、次期開戦はいつにしたがよいか、
作戦を立てて、じっくり攻めたほうが良いやも知れぬ。」
力攻めばかりが「攻城」ではないよ、とばかりの家康さん、
豊臣方との和議の段取りがととのいました。
豊臣方からの妥協案
①本丸は残す、ニ・三の丸は破棄。外堀は埋める。<図ー1>をご覧ください
②淀殿は人質に出さず、代わりに2名の宿将を人質に出す。
徳川から
③秀頼さんの身の安全+本領安堵
④城中諸士についての不問。
以上をもって、
慶長19年12月20日に講和に至りました。
途中、二の丸の始末は豊臣、三の丸は徳川方でといった約束事があったのですが、
徳川方が少しでもいい形で堀を埋めたく思っていたためか、二の丸の堀も埋めてしまいます。
それからとゆーもの、小競り合いは続きっぱなしで・・・
家康さんには、今、自軍にあまり派手に挑発してもらいたくない理由がありました。
それは、新型大筒が、次の戦の開戦を来年夏とそーてー、それに間に合わせるよう
いま、急ピッチで計画、製造されていたからでした。
また、当時としては非常に珍しい「直接照準」も可能な・・・そーですねー、
現代流でいうと「カノン砲(学者先生によりますと半カノン。。。??)」に相当します
でしょーか?・・・
*カノン砲:直接照準、水平弾道、戦車砲、高射砲に使用。
*りゅう弾砲、迫撃砲:間接照準、放物線弾道、障害物や山の向こう側の敵を倒す砲。
その必要な門数が揃うまでは、現場の将兵には余計なことをやりすぎて戦端を
切ってほしくないとヒヤヒヤものの家康さんでした。
***********************************************
<図ー1>大坂の陣

左・冬の陣では
大坂方諸将は水際迎撃作戦、真田幸村のみ「堀の内では機動戦ができない」とゆーりゆーで
「背水の陣」であります。
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右・夏の陣は
籠城では、兵糧攻めなど幕府方に攻撃の選択権多しとばかりに野戦に持ち込む侍大将が
多いのが目立ちます
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*参考:両合戦図ともWikipedia
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そこで、家康さん、現場の指揮官に「大砲の一件など」自分の胸の内を伝えたい、
と思うようにやや焦ってまいりましたが、
ですがあまりにもおーげさに準備をしていることが相手にばれてしまうと、
年内にでも、大坂方から戦を仕掛けられる可能性があります。
すると、大砲の数がそろえられません。
これを極秘裏に目立たぬよう、現場普請頭に伝えるいい方法はないものか考えます。
それでも、工事進捗状況と敵情の視察については、この場面では
「鉄は廃止される前に救え(当記事をお読みいただいている方に、私からの
メッセージであります・・(またよけーなことを・・・)
・鉄は熱いうちに撃て」だな」
とばかりに、さっそく時の老中・安藤重信対馬守様をお召しになります。
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安藤重信(1557-1621):徳川家康ー秀忠に仕えた武将
1611年秀忠付き老中、1612年、下総に2万石を拝領、大名に列せれられました。
1614年大阪冬の陣に参戦。豊臣方・大野治房隊に敗退。1619年、高崎5.6万石に加増移封。
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安藤さん
「大御所様(家康さんの将軍職は1603-'05迄)の御懸念無理なからぬところ。
ここはひとつ、手前にお任せくださいませんか?」
と・・・
そこで、安藤さん一計を案じ一人の男を密偵として大坂まで派遣したのでありました。
堀は計画通りに埋まっていっているか?小競り合いはないか?それを引き金にして
今すぐ合戦になる危惧はないか?相手に増援勢力がきていないか?
しらべることはたくさんありそうです。
途中その男、江戸から東海道伝いに京師、引き続き京街道で大坂に向かおうと
考えていましたが、
都(京師)ではさすがに華やいだ雰囲気の中、食べ物屋のにおいにさそわれます。
思わず・・・
「どっかで、だんごでも喰ってっかなぁー・・・
確か安藤様からいただいた路銀があったはず・・・
あ、コレコレ・・・
何々??
<出張旅費は、一日定額分X日数+食費などを後払いとするので、
必要経費は必ずリョーシューショとともに
出張終了日から10日以内に江戸城カンジョー方に、てーしゅつすること>
いつからこーなったんだ?
ま、しょーがない・・・」
と、しばし休憩をと思った。
しかし、どうも中山道は美濃・加納のあたりからつけられているような
気がしないでもないのだ。
*******************************************:
<図ー2>中山道、東海道#
京師からの距離はカラスが記入。
各宿場間の距離はこの記事の終わりの方をご覧ください。
中山道:勾配がきつく、城下町近辺以外は1里(=3.93km)ごとに宿場が並んであるところもあった。
今回も出てきます。夏は、台風などの川止めがなく快適。冬は山岳地帯を抜けるきびしいルート
だったようです。
東海道:台風、水害時の大井川の川止めさえなければいー街道なのにねー。
もちろん、この程度の川に橋を架けるのは簡単な時代になっていました。
狙いは、橋を架ければ、有力な外様大名が徒党を組んで江戸に攻めあがって
こないかという防御的考えからです。
一応大井川の前後は井伊4万石と本多3万石のいずれも譜代大名に固めさせました。##
参考:#笹山晴生 氏 他編著、山川日本史総合図録、pp74 近世の交通、①東海道・中山道の宿駅
山川出版社、1997年1月10日 増補版3刷
##上と同一書籍、PP69 幕藩体制(1) ②大名の配置
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「しかし、この、気配があるようでないよーな、つけられている感覚とは。。。いったい・・・
いずれにせよ、この気配の絶ち方、音もせず追跡してくる技量・・・
そーとーの手練テダレであることに違いはあるまい・・・
もし、この者達と戦うのであれば、周囲に迷惑が及ぶ。
そればかりか自分の命も危ぶまれる。
そーいえば、草津川で、石切をやっとったワラジがおったな・・・
その中に削ったような鋭い石もあって、わしが歩いていたそばの
廃屋の柱にささってとまった・・・
ジューブンさっしょー力があるな・・・・
・・・・
これはしたり!!・・・こんな寒い時期、いくらなんでも子供たちが
水遊びをするは不自然・・・
あれは、お前を狙っているぞ、という合図であったか・・・
休みを取るなら、余人に迷惑かからぬ京のはずれが良い。」
「はて、こんな京の町はずれに茶店とは・・・いくらなんでも外れすぎでは??」
「お武家様、お早いお着きで・・・。」
「団子をもらおうか・・・おうおういや、
五平餅もついているのか・・・五平餅、それにかえてもらおうか!!」
「かしこまりました・・・」
「主人アルジ、
餠の色合いぢゃが・・・」
「さすがお武家様!!」
「主人、わしはまだなにもゆーとらんぞ、人の話は最後まで聞くものぢゃて・・・
餠の色合いぢゃが・・・
クシが刺さっている周りだけ少し濃く見えるがの?
ほんの少しじゃが、やはり気になるでの、ドーシテかお教え願いたい。」
「さすがお武家様、
旅のお客様にお出しするのには、甘味が一番とは申せ、
続けて食べて参りますと、少し口の中で甘さが鼻について参ります。
そこで、手前どものところでは、ところどころ甘くなりすぎないよう
しその実を混ぜているのでございますが、その色が
にじみ出てきたのでございましょう。」
「ふふふ、主人。うまいいーわけを考えたな。このにおい、
附子(ブシ=トリカブト)であることくらい拙者も存じておるぞ。」
「滅相もございません、お客様にそのような・・・」
「何なら、そちから食してみよ。
どーぢゃな?
やはり無理であろう・・・マー良いわ。」
といって、くだんの男は五平餅をクシから外し、自分の太刀から引き抜いた
小柄コヅカに、懐から出したこよりでそのクシを固定すると、地面に向かって
気合一閃・・・投げつけた。
・・・と、そこから一尺半(45cm)ほどの短刀をもった男が叫び声とともに
はい出てきた。
「土遁摸坪モビョウの術・・・?」
「さすが三代目・服部半蔵殿。お噂にたがわぬスキの無さ、鋭いドーサツリョク・・・
やはり草津で
取り囲んで始末しておくべきであったかの・・・。
したが、半蔵殿、この術、外からの空気の取入れも行っておりませぬ。
どうして奴が潜んでいたがご高説賜りたい。」
「やはり拙者は狙われておったか?そーであったのか?
いまのお尋ね、お答えしてもよいが、出自も知らぬ方々にお教えするのも
愉快なことではない。
しかしおぬしたち、伊賀甲賀にあらず、飛騨、上田、甲斐、大内(豊後)、サツマでもなさそうだ、
いったい・・・?」
「そこまで御存知とは!!それほどの方、なかなかおいでになるものではありません。
拙者、織部衆筆頭、織部茶伊太利亜野(オリベッティ・イタリアーノ)と申します。」
「何?織部流?本能寺の変のあと、明智殿が山中で襲われたときに、
護衛の織部の忍び達は光秀殿をお守りするため全員討死したと
聞いておるが。」
「さてさて、半蔵殿、歴史書のようなお方よ。当マサに文武両道というのは
あなた様のためにあるような言葉。
しかもあれを<摸坪の術>と見抜くとは・・・。
我ら織部の者、土岐の御屋形様、明智の御屋形様($)とかわいがっていただき申した。
光秀様ご存命の頃が一番活気がありましての、足軽衆としてもよく先鋒を務めさせて
頂きました。その数、百とも、百五十騎とも。
ところが、光秀様の信長様の覚えが芳しいものでなくなってまいりますと、
我々も次第に、過酷な戦地に出陣するようになり、気がついてみれば、
本能寺の一件の前には三十騎ほどに・・・
秀吉様との天王山の戦い(=山崎の戦い)の際、
光秀様の護衛につきましたのは、織部の里($$)に少数を残して
約20騎だったそうでございます。
その護衛は、今半蔵様仰せの通り、
光秀様が秀吉様の ”中国大返し” ののちの戦から敗走中
光秀様もろとも付近の山中で土豪に撃たれましてございます。
我ら、いま、半蔵様に斃されたもの含めて十三名、その時部落の留守をして
おりました子孫たちにございます。」
「そうであったか。あいわかり申した。
それでは、お約束の、土遁の術を見破った見極めだが・・・
ここ、京の川べり(桂川)、掘るに従い、地層が硬い。
十分掘れなかったのであろう。
人が地中に隠れていたところの足跡がほかのところの足跡より押しなべて、
わずかに浅かったのじゃ
それも丁度六尺弱(180cm弱)程度にわたってかノー?
人が隠れていると考えるのに、丁度良い長さと思わぬか?」
「なるほど、半蔵殿、お話を重ねれば重ねるほど恐ろしいお方よ。
本日は我らにとって、少ない仲間を失い、大きな痛手にございました。
しかし、また得たものも大でござった。
いい修行をさせていただき申した。かたじけない。
この礼は、いつか必ず・・・」
というが早いか、茶屋と思われた屋根、壁板、床板、
半蔵が腰を掛けていた以外の木の長いす・・・
すべて一瞬のうちになくなっていた。
「なんて奴らだ、板を隠れ蓑にしていて気配を消して、全員でわしを監視しておったのだ。
たまたま、板の組み方が
家の形になっていただけのことだったのか・・・
わしは、いつやられてもおかしくなかったのだ、
土遁の術を見破ったくらいで得意になっていた自分が何とも小さいわい・・・。
しかし、ホンに、これは容易ならん奴ら・・・
わし一人では大御所様、上様(2代将軍・秀忠)の足手まといになることがあっても
とてもとてもお力になって差し上げることなどほど遠いわ・・・
ここは一旦江戸に引き返して対馬守(老中・安藤重信)様にご相談申し上げ、いずれ
然るべき増援をお願いせねば・・・
寒さが緩んで、アヤツらが本格的にされたら、先般の冬の戦いの真田以上(☆)に、
江戸方が攪乱されるやもしれん。
十人余と言ってもいずれ一騎当千、わしは一刻も早く江戸に取って返さねば。
%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%
真田幸村が「夏の陣」で縦横に馬を走らせることができたのは、毛利勝永・大野治房らが
攻め手をうまくかわすなど戦線をコントロールしえたからであると、第一線の侍大将の活躍を
高く評価する一派もおいでになります。
%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%
「いや、半蔵それには及ばん。」
「なんと、これは対馬守様。いつからこちらに?」
「いや、お主に申し訳ないと思ったが、実はずーと、お主を尾行しとったのじゃ。」
「???」
「聞くところによると、お主の江戸城内での評判は良くない。
あ、ちょっと聞いてくれないか。
わしは、お主と、昵懇ジッコンというほどの関係ではない。
そこで、本当のお主の仕事ぶりを見たくての、
つけさせてもらったというわけだ。
悪く思わないでくれないか!!
さすれば、お主のウデ、しかと、見届けたぞ!
先ほどの、土遁の術の看破、なかなか見事ではないか!!」
「は、恐れ入ります。ですが拙者は奴らの隠形オンギョウまでは見破れず・・・」
「よいよい、お主と織部衆との対決の模様、そしてお主の独り言、全部かきとって早馬で
三河(岡崎、家康の元々の本家)と江戸に送ったぞ。」
「それは重ね重ねお心遣い御礼申し上げまする。」
「ところでな、半蔵・・・
わしは、お主に、大変な伝言を上様から仰せつかってきたのぢゃ・・・」
「と、もうしますと?」
「うむ、確かに、城内では、職権濫用したのは懲罰に値しよう。
そしてお主は、伊賀組組頭の任を解かれた。」
「は、それは、確かでございます。」
「・・・」
「安藤様、この半蔵、何を言われても驚きませんぞ!!
きっと、上様から新たなお沙汰があったのでございましょう。
どーぞご存分にお話しくださいませ。」
「半蔵。わしは今のお主の<武芸者としての腕前、資質>
加えて、大坂までいかず、ここで引き返し、江戸に早く連絡すべきとの好判断。
わしが今まで聞いてきたお主の噂とはまるで別人じゃ。
お主の人格すべてにすっかりほれ込んでしまったのぢゃ・・・
ところが二代目様からは、伊賀組頭を解任したのは役職不適当と思われたための
解任であり懲罰ではないとの仰せなのぢゃ。
わしは、そこで、給金が下がるので十分なお仕置きではありませぬかと
申し上げたのじゃが、御聞き入れていただけなかった・・・」
「そーしますと・・・拙者の懲罰と申しますは・・・?」
「次の豊臣方との戦い起きれば、奴に五十騎を与え、「中入り◆」組頭として参戦させよ。
一万石の侍組頭が百騎持ちなので、あやつの石高から五十騎の組頭となるは妥当で
あろう。と・・・
非常に厳しいご命令じゃ。」
==========
※◆「中入り」別動隊、奇襲部隊:主に敵の側面・背後に忍び寄り攻撃しますが
もっぱら少人数ですので(中には3-5000人規模というのも例外的にありますが)
下手をすると全滅の危機に常に直面しているかわいそーな隊列であります。
===========
「半蔵、命に代えましても・・・」
「まて、半蔵。中入りは、お主も知っておろーが、死とも直面した隊伍。
今、わしは今のお主が素晴らしい武人であるといったばかりではないか!
それをあらた、五十騎ほどの組頭などとは・・・
のー、半蔵、わしは上様にこのたびの半蔵の働きぶりを報告し、
お主にふさわしい、剣術なり忍びの術なりの指導に当たらせるような役職に
復帰できるよう話してみようと思うがどうかの?」
「おやめくださいませ。」
「なぜじゃ?」
「もしそれで安藤様のお立場が悪くなりますれば、私が、大坂の地で果てるのはまだしも、
二代目様の逆鱗に触れて、<安藤様切腹など>とでもなれば、
拙者死んでも死にきれません。
そして、拙者は親族一同から、自分の身勝手から、上役を切腹に追い込んだ能無し役人と、
服部家始まって以来のチリ・芥扱いされましょー。
安藤様!この半蔵、人生も終わらんとしているときにして、拙者を認めてくださる方、一人でも
巡り会うことができて幸せでございましたよ!!」
「半蔵、潔いのー。もったいないのー。」
「そのお言葉を、半蔵、宝物に致しとう存じます。」
◎三代目・服部半蔵の夏の陣
一説に、激戦「天王寺口、岡山の合戦場(地図は<図ー1右>、
補足は下の「&&&&」ラインのその下をご覧ください)の
小部隊の侍大将として参戦。名だたる、幕府方の大将2-3人を
討取り、自らも討死したとの説があります。
きっと、かの「織部の衆」との死闘もあったことでしょう・・・
(あったことにしておいてください!オネガイ!!)
ですが、夏の陣の参加兵力をご覧いただくと、戦う前からすでに勝負はついていたような
気がしませんか??
&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&
<図ー1>の補足、大坂冬・夏の陣、オモロドコロ
参考:Wikipedia
#####################################
<図ー2>を補完する東海道・中山道宿場間距離表
参考:Wikipedia
**********************************************************
<図ー3>歴代服部半蔵:今回のお話の主人公は、3代目・正就さんです。

***************************************************************************
($)<図ー4>土岐氏とは?
*************************************************************************************************
($)<図ー5>明智氏とは
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<図ー3>歴代服部半蔵:今回のお話の主人公は、3代目・正就さんです。

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($)<図ー4>土岐氏とは?
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($)<図ー5>明智氏とは

明智氏は、土岐氏の分派に当たります。
本能寺の変の動機の一つに、織田氏が土岐氏を滅ぼしたため、明智氏が御先祖様の
かたき討ちを行なったと主張する学者さんもいらっしゃいます。
服部半蔵、土岐氏、明智氏:Wikipedia より
****************************************************
($$)
織部の里、織部の民について・・・わたしのまったくの創作です。
まず焼き物で<美濃焼と志野焼、織部焼(織部好み)>というものがあります。
古くは平安時代に、瀬戸市周辺に「須恵器」として、その萌芽を見ることができ、
鎌倉時代にはさらに同市の丘陵地帯に陶器生産の窯が広がりました。
これを織田信長が、生産効率向上のため、職工を美濃市の一角に集中移転させ、
のち、桃山時代に、志野焼に代表されるような「美濃桃山陶」が焼かれ
一大産地となり、美濃焼の基礎が築かれました。
そして、茶人としては元々千利休の弟子でもあった「古田織部」の指導で、
「織部好み」とよばれる奇抜で斬新な形や文様の茶器などを多く産し、
当時の南蛮貿易に使われていたようです。
その古田氏は、
元々美濃国の守護大名土岐氏に仕えていた豪族で、主人を信長、秀吉と
変えております。
古田織部(本名:重然シゲナリ)氏は、天文12年(1543年)、美濃本巣郡の
山口城(*)弟の子に生まれました。
#####################
(*)現在の岐阜県本巣市山口、城跡が残っていますし、付近を通ります
樽見鉄道の駅に「織部駅」があります。
######################
茶の湯をめたのは40歳と遅かったのですが、のち上記のような才能を
発揮するに至りました。
しかし晩年は、慶長20年(1615年)、大坂夏の陣の折りに重然の
茶人の身内から豊臣氏に内通者がでてしまいます。
そのため、重然も冬の陣の頃から
「豊臣氏と内通、徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ矢文で
知らせたなど」
の嫌疑をかけられ、大坂落城)に切腹を命じられます。
重然はこれに対し、一言も釈明せずに従ったと伝わっております。
享年73。古田家は断絶します。
といった実話があり、豊臣方の武将にひょっとして「織部さん」が
いたかもしれなかった、という可能性があるだけで、
織部の里や織部忍群などは存在しません。
そのもしかしたら、豊臣方になっていたかもしれない「織部さん」の
代わりに忍者隊を作ってみました。
首領格の織部茶はイタリアのタイプライタ生産No1企業の「オリベッティ」で
あることはゆーまでもありません。
また、「土遁・摸坪」もわたしのヨタで、「坪」は日本ではもっぱら広さの単位ですが
元々「土地」が「平ら」の意味の漢字で、「摸」はにせるという意味でありますので
「平らな土地に似せる術」とでも申しましょーか?
要するに子供だましの自己満足であります。
%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%
例によっての、イーかげんな作り話に最後までお付き合いくださいまして
ありがとうございました。
一言だけ申し添えますと、この記事は、来年のNHK大河ドラマの番宣では
ありませんので、お間違いのないようにお願い申し上げます。
京師の茶屋にてー慶長19(1614)年大晦日 了
カラスのクンセイ 拝
****************************************************
($$)
織部の里、織部の民について・・・わたしのまったくの創作です。
まず焼き物で<美濃焼と志野焼、織部焼(織部好み)>というものがあります。
古くは平安時代に、瀬戸市周辺に「須恵器」として、その萌芽を見ることができ、
鎌倉時代にはさらに同市の丘陵地帯に陶器生産の窯が広がりました。
これを織田信長が、生産効率向上のため、職工を美濃市の一角に集中移転させ、
のち、桃山時代に、志野焼に代表されるような「美濃桃山陶」が焼かれ
一大産地となり、美濃焼の基礎が築かれました。
そして、茶人としては元々千利休の弟子でもあった「古田織部」の指導で、
「織部好み」とよばれる奇抜で斬新な形や文様の茶器などを多く産し、
当時の南蛮貿易に使われていたようです。
その古田氏は、
元々美濃国の守護大名土岐氏に仕えていた豪族で、主人を信長、秀吉と
変えております。
古田織部(本名:重然シゲナリ)氏は、天文12年(1543年)、美濃本巣郡の
山口城(*)弟の子に生まれました。
#####################
(*)現在の岐阜県本巣市山口、城跡が残っていますし、付近を通ります
樽見鉄道の駅に「織部駅」があります。
######################
茶の湯をめたのは40歳と遅かったのですが、のち上記のような才能を
発揮するに至りました。
しかし晩年は、慶長20年(1615年)、大坂夏の陣の折りに重然の
茶人の身内から豊臣氏に内通者がでてしまいます。
そのため、重然も冬の陣の頃から
「豊臣氏と内通、徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ矢文で
知らせたなど」
の嫌疑をかけられ、大坂落城)に切腹を命じられます。
重然はこれに対し、一言も釈明せずに従ったと伝わっております。
享年73。古田家は断絶します。
といった実話があり、豊臣方の武将にひょっとして「織部さん」が
いたかもしれなかった、という可能性があるだけで、
織部の里や織部忍群などは存在しません。
そのもしかしたら、豊臣方になっていたかもしれない「織部さん」の
代わりに忍者隊を作ってみました。
首領格の織部茶はイタリアのタイプライタ生産No1企業の「オリベッティ」で
あることはゆーまでもありません。
また、「土遁・摸坪」もわたしのヨタで、「坪」は日本ではもっぱら広さの単位ですが
元々「土地」が「平ら」の意味の漢字で、「摸」はにせるという意味でありますので
「平らな土地に似せる術」とでも申しましょーか?
要するに子供だましの自己満足であります。
%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%
例によっての、イーかげんな作り話に最後までお付き合いくださいまして
ありがとうございました。
一言だけ申し添えますと、この記事は、来年のNHK大河ドラマの番宣では
ありませんので、お間違いのないようにお願い申し上げます。
京師の茶屋にてー慶長19(1614)年大晦日 了
カラスのクンセイ 拝
