戦争の記憶が風化しないように努力しましょー・・・
とかなんとか、口先だけうまいこと言ってサ!!
だったら、白黒はっきりつけて
「敗戦の日」
トカ
「国益に反した戦争が終わった日」
とでもしたらいーのに・・・
少なくとも「終戦記念日」ごときより
オトボケではないし、風化は防げると思うな・・・
そんなヤワなネーミングしてるから、調子に乗ったレンチューが出てきて
戦後70年も経った今、シューダンテキワリビキケンだの
なんだのって。。。
あ、こんな話をしている暇なかったんだっけ・・・
チョット、人のプライバシーに触れることになるかな?という不安も
あるけれど、10年経ったからモーいーかな?許してくれないかな?
私の家の近くに「Pさん」という庭師さんが住んでいました。
初めて知り合ったのが、Pさん77歳、わたし46歳・・・
平成14年だと思いましたね。
でもね、Pさん10年ほど前に、むちゃくちゃな運転する酔っぱらいの
2輪にひっかけられて亡くなってしまった。
まだまだ、90?100歳??まで大丈夫かなって人だったから・・・
仕事仲間の人たちは、皆悲しんだり、がっかり。
私も通夜にお参りさせてもらいました。
ところでPさんの魅力ってのは、何といっても、元気で朗らかな
所かな?
暗く沈んでいる人でもPさんと一緒にいると、自然と元気に
なっていくんだって。
それで、Pさんの、庭師、剪定のオシゴト、老人ホームみたいところ
多かったようでした。
ソモソモ、私とPさんが親しくなったきっかけっつーのが、
ホラ、チョーナイカイのごみ・ステーションの<キレイキレイ当番>って
ゆーのがあるでょ?3月ごとくらいで廻ってくる、アレ!!
ある時、「カラス家がステーション当番」の時に、そのごみ投入の木枠が
こわれていたわけ・・・
そこに、タマタマその日のごみを出しに来たPさんにソーグー。
「なんだ、こんなの朝飯前だよ(実際そーだったらしいんだけど)!」
とユーが早いか、5分くらいで直しちゃった。
お礼?もちろん、改めて夕方菓子折もってニョーボと伺いましたよ。
でも、運悪く臨時で急ぎの用が入ったとかで留守してます・・・と、
奥様がおっしゃって・・・
この奥様も、ウチのヤツと比べると、背筋がキリリと一本入っていてサ、
立ち振る舞いなんかもテンポ良くって、かっこいいんだって、これが!!
えーーー、それでネッ・・・
そんなPさん、カチカチの現実主義者だったんだけど、たった一つだけ
不思議経験があって、子供のころから自分が
「ジージ=じいさん、お孫さんのPさんの呼び名、人前でも時々出て
困っています」
と苦笑していらしたが、まんざらでもなさそうだったので、きっと自慢の
お孫さんだったんだろーね・・・
・・・そうそう、それでね、ご自分が「ジージ」の世代になったら、<マホウのチョーメン>を
もらえて、それを持って歩けば、交通機関・病院は大体ただ、食料もモノに
よっては大幅に割り引いてくれるというありがたい「今考えると学生手帳なようなもの」
を自分が持つことになる・・・という夢を何回も見るんだって。
それもね、歳とるごとにね、回数が増えていくんだって。
Pさんの出身地?
さァ?、通夜には函館なまりの人が多かったから、函館から、森にかけてなんじゃない??
え?お前に「函館弁がわかるのか?」ですって?
バカ言っちゃいけない・・・これだけ広いホッカイドーですからね、
ドーミン540万人いたら、言葉も540万通りあるんですよ!!
でも、函館地方の言葉はちょっと独特です・・・
それに私、商売柄、道央と道南はちょこちょこ出ていましたからね。
私が子供のころは厚別(札幌市の東端)と手稲町(昭和42[1967]年札幌市と合併、
同市西区から平成1[1989]年分区、現・札幌市西郊)と、定山渓(昭和36年まで
豊平町定山渓、現在札幌市南区、南端)ではことばのイントネーションが違っていた
区域もあったんですよ。
私は転勤族だった父の影響もあって言葉遣いの違いには敏感ですよ。
とにかく、北海道から出たことない方のはず・・・いやちょっと待てよ・・・?
Pさんの「庭師さん」になったというのは、大分年長になってからのお話で、
もともとは「船大工さん」だったとか聞いたことがありました。
ひょっとして船に乗って・・・
見当がついたって?何のですか?
「Pさんの<マホウのチョーメン>の正体」ですって?
モーですか?
調べてくるから2-3日くれ?
そんなもんで全部がわかるんですか?
それではお願いします。
☆ピポピポピポ☆2-3日経過☆
え?「原爆手帳」が正体??Pさんの<マホウのチョーメン>の正体ですよ!?
Pさん、軍属(*1)、中尉相当で昭和19年から呉軍港に行っていたんですか?
もー、沿岸警備船を作る鋼材もないので、小型船は木製に切り替えられ、
全国から腕のいい船大工が集められた・・・
その中にPさんもいた・・・
Pさんはあんな性格だから、いつの間にか、人望も厚くリーダー格になった。
広島に原爆が落ちた時(昭20 = 1945.8.6).、上からの命令で、広島の後始末をする
人間が足りないので、手伝いに行って来いと言われ、原爆投下2日後の広島に行って、
1週間ほど滞在されてんですか・・・
それから・・・?
戦後45年経った平成2(1990)年ころ、風邪を引いたといって病院にかかったところ
たまたま血液検査をしたら、
「あら大変!」
と大きな病院にまわされ、精密検査となったとゆーんですね?
次は?
白血病のなりかけ、あるいは今までもこーゆー血液異常だったのかもしれないけれど
”大ラッキー” で発病しなかったのかもしれない。
でも念のため、これから半年ごと検査しましょー。
なにっ!?被ばくのご経験がおあり?原爆投下2日後の広島においでになった・・・
「原爆手帳」を申請してみましょう・・・
この血液異常は原爆の影響は否定できません。
と、ご担当の先生に言われて、初めて、ここで「手帳とPさん」との関係が
でてくるわけですね?
失礼ながら、これからの、当病院への受診、
検査などで、大きく経済的ご支援ができると思いますよ。
とご担当の先生から、そーゆことも言われたんですか?
でも、そのころすでに、原爆が落ちて45年。手帳の申請をして
受けていただけるものなんですか?(<図ー1**>ご参照ください)
じゃあ、Pさんはお若いころから、この「原爆手帳」がご自分の
お手元にいつか来るであろうということを、ずーーーーっと
夢で見続けていたということになるんですか?
世の中不思議なことがあるものですね。
そして、私の言葉のわずかなことからヒントを見出して
<マホウのチョーメン>の正体をすぐ見破ったあなたも
すごい方ですね。
でもPさん、ずーっと昔から原爆の影響をうけるのが、もー決まって
いただなんてひどすぎます・・・
手帳はたった10年しか使ってないし・・・
ええ、わかっています、でもやっぱり、泣けてきます、御気の毒で・・・
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(*1)軍属;旧・帝国軍隊に勤務した、軍人以外の者の総称
文官:文官、技術官、法官、教官、監獄官、通訳官、看護婦長
⇒将校相当(少尉[場合によっては准尉]以上)
雇員:下士官(曹長、軍曹、伍長、
*兵長は階級章に星はないが「兵」の最上位です)
傭人:看護婦、雑役夫
に分かれる
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<図ー1**>NERIC NEWS,2008.4,から
www.jfpu.org/senmonbu/heimin/HeiminShinbun/NERICNEWS0804...
年度によって「原爆手帳の認定」は非常に厳しく「見捨てられた**年」などという
言われ方をしているようですが、少数ながら平成の世になっても「原爆症」の認定は
続いているようです。
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最後までおつきあいいただきありがとうございました。
夏目漱石大先生に対抗して?????始めた企画も、目標に
到達しましたので一応今回で終了です。
機会があったらまたやろうかな?
その前に反省会か?ヤッパシ・・・
カラスのクンセイ 拝 ZZZzzzz