長浜(米原)から北を目指して延伸を続けてきた北陸本線が 、日本史上でも有名な
石川・富山県境の「倶利伽羅越(広義には一般的に天田峠までを含むようです)」を
トンネル(L=946m)で越え、 高岡まで営業を開始したのは明治31(1898)年4月のこと
でした。
天田峠は旧国道の峠でも標高150mに過ぎませんが、建設当時の北陸本線は
津幡側18.2‰、石動側20.0‰の急勾配と当時のSL君達にはヒジョーに過酷な
お仕事になっており、こればかりではなく、ツヅラ折り連続する難所でありました。
そんなに慌てて工事しないほうが、いいルート選定、線形など吟味できてよかったんぢゃ
ないの?とゆーご意見もトーゼンでてきましょー。
しかし、明治27(1894)年からの日清戦争、同37年からの日露戦争が始まりますので、
日本海側の物資輸送ルートもある程度太くしておかなければ不安です。
海軍舞鶴鎮守府も強化されました。
日清戦争時代、舞鶴の長官はのち元帥まで登った東郷平八郎中将(当時)でした。
(日清戦争時の陸軍さんの輸送は、当時開通していた山陽鉄道・三田尻(現・防府)まで
鉄路、以遠、下関まで徒歩?[ ほんとかな?]か瀬戸内航路、そして最後は関釜航路と
聞きます)。
これら輸送隘路を解消する為、昭和16(1941)年から新トンネル(単線、L=2459m)の
掘削を開始、 太平洋戦争による中断を挟んで昭和30(1955)年11月に開通、旧線は
廃止されます。
その後、この区間は昭和37年に複線化、昭和39年に電化が完成しましたト。
メデタシ、メデタシ・・・・・ふ~っ・・・
(つぎッ
)一方、廃止された旧トンネルも昭和42(1967)年に拡幅改修したのち、国道8号線に
転用され、 以来なお北陸地方の幹線として現役とゆーのですから、いかに本邦の
基礎預金額の少なさが透けて・・・・大事に使われているな!!とカンドー的なお話でわ
ありませぬか。
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<図ー1>倶利伽羅と天田峠しか書いていない地図
*石動⇒イスルギ=イシ+ユルギと思われます。
ユルギは文字通り揺れ動くことで、たいてい「揺」の字が使われることが多いのですが
・・・「揺るぎない」という言葉を思い出していただければ、
それ程難読駅名ではないと思われます。
<フロク>
*動橋⇒イブリバシ=イブル+はし。こちらは石川県の駅ですが、同じ北陸線上にあります。
加賀地方南部の古い方言で「動」の読み方が違うだけで、意味は「ゆるぐ」とまったく
同じです。こちらも揺する、ゆり動かす、といったことをあらわします。
「いぶり」は広辞苑によれば、「いぶる」の活用形です。
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ここで、旧鉄道線のCMを少しお聞きください。
その九折(つづらおり)トンネル(地方によっては九十九折とも)は新線には無く、
旧線にだけあった延長150mほどの小さなトンネルがありました。
九折とは現在に至るまで、津幡町の大字名であります。
今では一番古い旧国道でも九折も無く、 五折程度に改良が進んでいるようです。
昔の昔は「本当に九折かそれ以上の曲がり角があったのか?!!」と想像されますね。
また倶利伽羅」とは、インドの古典サンスクリット語kulikahに由来します。
kulikahとは、
「倶哩迦」や「矩里迦」とも音写され、その意味は「具黒」であり、龍王の名前とされました。
もともと不動明王の功徳がこの龍に降り注ぐようになり、この龍を駆使し加護を受ける事が
出来るという信仰が生まれます。
そして、最終的に、この龍が「不動明王の化身」となりました。
「くりからもんもん」という言葉お聞きになったことありませんか?
あれは、「倶利伽羅明王の像」を彫った刺青のことであります。
刺青は英語では"tattoo"でありますが、わが国では、江戸期以降、
堅気の罪のない方に彫られたものは「ほりもの」、
手首に2本線を入れた罪人の印のことを「いれずみ」と厳密に区別してよんでいました。
最近はその二つが正確に使い分けされることも少なくなってきました。
せめてTVの時代考証くらいは正しくやってよ!と思うのですが、こちらも
アヤシクなりつつあるのは残念です。
<源平合戦:倶利伽羅峠の戦い>
さて、時代は900年ほどさかのぼって、貴族様の権力はまだすっかりおちぶれた
というところまではいってはいませんが、何か事を起こすには「武士」の力が必要な頃に
なってきていました。
何せ
源義仲(=木曽義仲)が、以仁王モチヒトオウの平家追討の令旨に応じて信濃で挙兵したのが、
治承4(1180)年と、頼朝さんが鎌倉幕府を開くまで目前に迫っておりましたが、この件に異議を
唱える者なく、すでに貴族階級の間では、古代のように「切った貼った」などとゆー、野蛮な行為で
ショーブを決めるユーソーな方はおいでにならなかったのでしょうね。
で、枝葉末節のことですが、鎌倉開府を1192イイクニ年のままにしておきますか?
最近変わった1185年にしますか?・・・先を急げ・・かしこまりました・・・
源義仲 VS 平維盛コレモリの「大将戦・倶利伽羅峠の戦い」の前に前哨戦がいくつかあったので
勝敗のみ記しておきます。
◆1181年 横田河原の戦い ◎源義仲 VS X維盛配下・城助職
結果 義仲さん・北陸道に勢力広げる。
◆1183年 越前・火打(燧)城の戦い X義仲 VS ◎維盛ほか平家親族軍10万騎
結果 義仲軍は越中国へ後退を余儀なくされる。
◆その一月後
越中・般若野の戦い(奇襲戦)
◎義仲四天王(特に重要な側近)今井兼平 VS X平氏先遣隊・平盛俊
結果 ①盛俊の退却。
②平氏の布陣に変化?
元の計画がわからないだけに、どこがどのように変わったかは
不明ですが?下記の二手に分かれて布陣しました。
○平通盛、平知度の3万余騎⇒
能登国志雄山(志保山とも。現・宝達山から北方ににらみがきく
山岳地帯に布陣・・・義仲さんの別働隊に結構ちょっかいを出されて
いやな思いをします。
◎平維盛、平行盛、平忠度らの7万余騎
加賀国と越中国の国境の砺波山に布陣。
<倶利伽羅峠の戦い・本番。5/11の夜襲>
①義仲は源行家、楯親忠の兵を志雄山へ向け牽制させ、義仲本隊は砺波山へ向かいます。
義仲は昼間はさしたる合戦もなく過ごして平家軍の油断を誘ったようです。
今井兼平の兄で義仲四天王のもう一人・樋口兼光の一隊をひそかに平家軍の背後に
回りこませました。
②平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けます。
浮き足立った平家軍は退却しようとします。
ところが、退路はすでに樋口兼光に押さえられており、平家軍7万余騎は大混乱に
陥ったまま、唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に逃れようとしましたが・・・
そこは倶利伽羅峠の断崖。平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して壊滅(☆)。
☆「壊滅」・・・明治以降の近代戦で「壊滅」と申しますと、聯隊以上であれば軍勢の
30%が損耗(死傷)いたしますと「壊滅」といっております。
また、作戦・戦略単位が大きいほど(聯隊⇒旅団⇒師団⇒(方面)軍)少ない
数字で「壊滅」と判断されます。
これは戦死者の始末、負傷兵の護送、自軍兵器の回収後送、あるいは
敵方に再利用されないための破壊行為などの時間損失も戦闘力の
低下に入れなければならず、「戦闘可能兵員⇒非戦闘員 or 戦闘不能員」と
なることを考えての数値であります。
ところで、源平合戦の時代の歴史書にも「壊滅」という言葉が出てきているそうで、
現代流の考えを当てはめると「主力7万が壊滅する」と、
・・・7万と申しますと約3個師団にもなり、「軍レベル」です。
20%程度で・・・14000騎の死傷者で「壊滅」という数字を採用しなくてはなりません。
しかし、当時は谷底に落ちた兵員まで助けないでしょうから、56000も残っている軍勢を
壊滅とは言わなかったでしょう。
しかも、パニックに陥った下級戦闘員からは、かなりの敵前逃亡が出たと思います。
まー、そーですねー、木曽義仲軍3万に対抗するには、
①野戦の場合:最低でも5万程度は必要・・・地の利が義仲軍にはあります
②万が一維盛さんが強固な陣地を築いた場合、「最低守備兵力2万+強固な陣地 or 城郭」が
対・義仲軍に用意したとしましょう。
(ありえませんが、倶利伽羅峠2回戦があった場合などの仮想・・・)
対抗する攻城兵は守兵の最低でも3倍は必要なので、本来なら義仲軍は6万人が
必要なのです。そこを、「地の利」でおまけ、半額にしました。
(※「地の利」って何よ?・・・水責め・兵糧攻めができるので攻城兵が有利なことも
ありますが、河川の大小、水はけ<堤を切った後で土地の地質が戦場として
使い物になるか?>などなど、現代とは比較にならないほど、普段から慣れ
親しんだフランチャイズでの戦いは大変有利だったと思われます)。
今回の戦いはまったくの野戦ですので、①のみをとって、犠牲は7万で戦闘開始⇒
5万騎損耗(損耗率5万/7万≒70%)としておきましょーか。
この2月後、義仲さんは上洛を果たすとあります。
大軍を失った平家はもはや防戦のしようがなくとありますが、一つだけ手があるとしたら、
琵琶湖北東、余呉湖に堤を張って、上洛途上の義仲軍を湖西に誘導。
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<図ー2>琵琶湖北
古来、湖南に出るためには、湖東・湖西ルートがありました。
入京には湖西ルートが圧倒的に近いのですが、念のため、湖東ルートに
「琵琶湖ー賤ヶ岳ー大岩山ー栃ノ木峠経由街道にいたるエリア」に余呉湖の
堤も破って付近を水浸しにしてみます。
堤の高さは20-30cmもあれば充分。
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あとは、義仲軍が湖西ルートを通った時に、比較的山が湖面に迫っている坂本あたりに布陣、
高所からねらう・・
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<図ー3>湖南
現在のJR線に沿っても行軍可能な幅員の道路があり、「坂本」付近では
京阪・坂本ー距離600m,公差20mーJR坂本ー距離600m,公差ほとんどなしー国道161号
この辺が一番戦いやすそうです。
本陣はたいした守兵は不要、全軍の7-80%を義仲軍の側面に突っ込ませて、
義仲隊を湖に追い落とす。
緊急時は、京阪とJR坂本間に予備軍(いわゆる「中入り」)3000を置き、救援に出させる。
義仲軍は、「モチヒトオウ」から平氏追討の勅令をもらった官軍ですが、ここで勝てば、
平氏が官軍になっていたかもしれない(朝廷は気まぐれで、臆病なので、
賊軍であっても、途中から強いほうを官軍にしちゃうこともありました)最後のチャンスでした。
<平家軍15000 VS 義仲軍 1-2列縦隊、縦にのびーて3万>
維盛さん勝てたと思いますけどねー?
ゆーがやすしですね・・・
一番、反撃が難しいところは、平家軍がイキショーチンしちゃっているところでしょーね・・・
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この後、平氏は幼い安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延び、壇ノ浦まで逃避行は続きます。
<平家物語と「玉葉」>
いままでの、源平合戦のお話は、平家物語をもとにして書いてまいりました。
ところが、当時の御公家様で「九条兼実」とおっしゃる方が、1164-1200年まで「玉葉」と
題して日記をつけておられました。
九条様は、関白、太政大臣など、貴族の最高位を何度か歴任された大人物でありますが、
この日記も只者ではなく、見識の高さから「吾妻鏡」他、本邦の正史またはそれに準ずる書物の
参考書として用いられているようなのであります。
さて、そこで問題になってまいりますのは、例えば、今回の「倶利伽羅峠の戦い」の
両軍の兵力であります。
平家物語では、平家7万VS源氏3万、玉葉では、平家4万VS源氏5000とあります。
平家物語の「平家7万」は全盛期の平家ならそれくらいの兵力は出せるかな?と思いますが、
源義仲の3万は???でありました。
これは、平家は「7万も動員できる力があったんだぞ」といった「水増し」の数字に見合うよう、
義仲軍も「水増しされた」のでは?と、長い間の疑問でした。
細かいご説明は抜きにして、織田・豊臣の兵農分離のあたりから、所領1万石当たり動員兵力100騎と
大体定数になってまいります。
木曽義仲、伊那谷に落ち着いたばかりで、周りの豪族の協力があっても30000騎(300万石=
加賀前田所領三つ分)も動員できるか?
それならば、玉葉の5000騎(50万石相当)のほうが現実味がありますか?
平家の7万も別働隊を入れると10万騎。関ヶ原の片方の軍勢と同規模であります。
これが平地ならともかく、山岳地帯で、うまく機動戦ができるか、?
だとしたら、それから1000年後のドイツ第3帝国の山岳(歩兵)師団より指揮官、
装備兵員の練度が優秀になってしまいます。
段々話がずれてきました。
そろそろ、カラクリとーげの戦い(だから違うよって)についてまとめてみたいと思います。
①「以仁王モチヒトオウ」が「源義仲」を官軍と決め、平氏追討令を出したのちの
両者の初めての大きな戦闘である。
②源義仲の圧倒的勝利に終わる。
義仲軍の勝因
1)慣れた土地に敵を誘い入れて戦えたこと。敵がそれに乗ってくれたこと。
2)敵が地理・地形の研究を怠っていたこと。
3)敵が奇襲・夜襲に対して備えがなかったこと。
4)(動員数の真偽はともかく)せっかくの大兵力を、散開・分散配置したこと
と、まあ、相手のケンキュー不足にもだいぶ助けられましたでしょーか?
総大将が「富士川の戦い」で水鳥の飛翔の音に敵来襲と勘違いし、戦わず
畿内に戻ってきた人物ですから(まだ存命だった清盛さんに「武士たるもの
骸ムクロをさらしてまでも戦うべきである」とお尻ペンペンされて、しばらく
京都に入れてもらえなかったとか)部下も気が気ではなかったでしょう。
ま、そのとーりになりましたが・・・
あ、モーひとつ忘れていましたね、モーといえばこれです。
[火牛の計]
『源平盛衰記』には、この攻撃で義仲軍が数百頭の牛の角に松明タイマツをくくりつけて
敵中に向け放つという、源平合戦の中でも有名な一場面があります。
しかしこの戦術が実際に使われたのかどうかについては、古来史家からは疑問視する
意見が多く見られます。
眼前に松明の炎をつきつけられた牛が、敵中に向かってまっすぐ突進して
いくとは考えにくいからである・・・とゆーのですが・・・
私はこの考え方すらおかしいと思っています。
人間が、まっさかさまに落ちていく断崖絶壁を、牛さんがきよーに人を蹴散らすほどの
勢いで降りることができるか?
考えなくても答えは、めーはくだとお考えになりませんか?
よくまー、こんな嘘八百が書けるなと思います。
それであれば
義経の、「神戸、鵯越えヒヨドリゴエ」。
神戸電鉄・箕谷(湊川起点12.0km)ー谷上の線路標識は50パーミルです。
大学3年の時行ってきましたが、こちらは乗馬騎馬がゆっくり下りれば可能かなと思えました。
ただし、源平合戦のように100-200騎がアッという間に駆け下り、というのはさすがにチョット・・・
でも「火牛の計」より数段現実味があると感じました。
スキー場に行きますと、「最大斜度(傾斜)**度」と看板が出ているのをご覧になったことが
ある方、おいでかと思いますが、30度ともなりますと、足元が見えません。
つまり、どこに滑っていてしまうかわからないのであります。
この30度が500‰で、鵯越の10倍、箱根登山鉄道の6倍きつい傾斜度であります。。
しかしながら、馬より、牛のほうが度胸が据わっているようで、産業鉄道にしか例がないと
思いましたけれど、標高が高くなるにつれて、内燃動力⇒馬力⇒牛力(っていうのでしょうか?)、
と使われている例があったかと思いました。
馬は、高所では足がすくむそうです。
横軽鉄道開通以前は「碓氷馬車鉄道※」が軽井沢ー横川間の旅客を担当していたようですが、
しばしば馬の脚が止まったようですよ。
そりゃいやだと思いますよ、あんなとこ歩くなんて・・・足踏み外したら馬刺し・・・次行きます!
※碓氷馬車鉄道:詳細不明ながら明治21(1888)年から官設鉄道完成の明治26年まで、横川ー
軽井沢の旅客を運搬。 「全国軽便鉄道」岡本 憲之 氏著、JTB Can Books,pp176 ,JTB
1999.6.1
ところで、この作戦、原典があるらしく、
そもそもこのくだりは、中国戦国時代の斉国の武将・田単が用いた「火牛の計」の故事を
下敷きに後代潤色されたものであると考えられています。
この元祖「火牛の計」は、角には剣を、そして尾に松明をくくりつけるというもので、
突進する牛の角の剣が敵兵を次々に刺し殺すなか、尾の炎が敵陣に燃え移って
大火災を起こすというものです。
とゆーわけで、昔から、私に、負けず劣らず、ヨタ話をする方がおいでになったことがわかって
大変うれしい思いをしております。
<E10の話>・・・「なぜ、突然??」とお考えの諸賢にはお答えは記事後半で・・・
さてさて、また話は現代、といいましてもー70年前ですがーに戻ります。
私事で恐縮ですが、私「5軸動輪のSL」が日本にいたなんて中1になるまで知りませんでした。
それを写真入りで教えてくれたのが、鉄道雑誌としては初めて自分の小遣いで買った
鉄道ピクトリアル、と鉄道ファンでありました。
鉄道ファンは引っ越しのうち無くしてしまいましたが、
ピク誌<写真ー1>のみは大切なカホー並みの扱いを受け現在にイタリマス。
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<写真ー1>私の「鉄本」中、No.1の宝物であります
「鉄道ピクトリアル、1970年5月号」
<特集 保存蒸気機関車> Vol.20 No.5
初めて自分の小遣いで鉄道雑誌を買いました(中2)。
¥230だよ!!
奥がE10、手前がC11です。青梅鉄道公園。
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そこで、このE10、ナニヤツか当時さっそく調べてみましたところ・・・
先輩に4110、さらに見本となったドイツからの輸入機4100(当時J,Aマッファイ社、
1931年から合併にて現・クラウス=マッファイ社となる)があることも知りました。
今回はE10のことだけお話しさせていただきます。
(4110については2/1の「美鉄の4110」もご参照ください
もともと、E10は福島ー米沢間・板谷峠越えに「やむを得ず」作られた専用機でありました。
終戦後の昭和22年、板谷峠の補機専用機のうち、4110の可動機が19台中17台、
これに+応援9600でしのいでおりました。
石炭自給も悪くなりつつある中、それでも昭和21年11月から、同区間の電化工事がはじまり、
あともう少し・・・で完成か?!・・・といったところで、GHQの「電化工事の無期延期」といった
ムチャブリがでて(●)、4110はそれまで、ヨクゾ戦中・戦後の酷使に耐え働きづめ働いて
まいりましたが、急に自分たちの幕引きのめどが立たなくなり、緊張の糸が途切れたのか、
疲労の限界・ガマンの限界を超えたのでしょうか?
次第に戦線離脱車が多くなり始めます。
ピンチヒッターのキューロクの台数にも限界がありますし、D51を導入するわけにも参りません。
福米間スイッチバックで、当時、全駅で一度は安全側線に入る構内配線になっており
通過運転はできませんでした。
ですから、全長が長い機関車は福米間の各駅に入線できなかったのです。
(全長、9600:16563mm、D51:20003mm☆☆)。
そこで急場をしのぐために登場したのがE10でありました。
急場しのぎといっても、出力、けん引力は4110の150%。
ボイラー、シリンダ直径/ストローク、蒸気圧ともD52と同一でありました。
それだけの「システム」のかたまりが走るわけですから、ズータイもタンク機か?
という大きさであります。
全長14.5mは9600/8620クラスより20m短い程度
(9620とD51の機関車+炭水車の長さの差程です)。
タンク機としては異様な長さです。C11:12.35m,C12:11.35m.
また運転整備重量の100.2トンはC58の100.2tonと同じ重さ。
動輪周出力1300psは貨物用D50/D51の1280ps、あるいは急客用C59の1290psに匹敵、
どの数値をとっても、既存のタンク機とは別物。
いや、本邦を代表するといっていい大型機関車の登場となったのでありました。
そのほかにも4110型から受け継いだ第1動輪と第5動輪に横動を許容する
「ゲルスドルフ式構造」を取り入れました。実際、第1動輪には6mmと第5動輪の横動を許容し、
そのほかにも第2動輪はタイヤのフランジを6mm薄く、3-4動輪をフランジレスとしました
もう一点変わったところでは、トンネル内での煙害防止のため、ボイラー側を後ろとした後進運転
(本形式は炭庫側が前となるのが正向)を前提として設計・製造されたので、運転士は炭庫側を
向いて左側に座る席配置となっており、そのため運転席から蒸気溜めに伸びる加減弁ロッドの位置も
通常とは逆側(煙突に向かって右側)であり、逆転器レバーや計器類も炭庫側に向けて取り付け
られました。
そのためか、近代機にかかわらず、除煙板がついていません。
以上のコンセプトで「10輌」の新製予定でE10の作製が始まりましたが、日本自体が戦争の復興時期の
折しも、鉄鋼材は引く手あまたで材料不足・・・結局計画を5輌に縮小して昭和23年全車落成と
あいなりました。
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& (●)GHQ:時の吉田茂首相は何でもかんでも細かくうるさく指示するので
& GHQ=Go Home Quick!(アメリカに帰れ)といったのはゆーめーな話ですが、こんなことが
& 通じるのも私の世代で終わりでしょう。
& GHQ=General Headquarters,連合国最高司令官総司令部。
& そーぢゃなくて、GHQの「電化工事差し止めは我が国へのいじわるではなく」、当時まだ、鉄道の
& 電気運転に信頼性を置いていなかったというのが真相のようです。
& すでに、米国生産のディーゼル機関車を積んだ貨物船が日本に向けて航行中であったとか?
& つまり、米国製内燃機関車を日本に高く売りつけて、わが国の経済力をさらに弱体化させようと
& いった魂胆だったらしく(つまるところ我が国へのいじわるといえばいじわるですか?)、
& 無煙化に理解がなかったというのとはちょっと違ったようです。
&
& ですが、例えば、来日?したディーゼル機関車が、アメリカ大陸横断鉄道用の1台2500-3000PS、
& 3-4重連で貨車5000-1万トンも引く大柄な型(◆1)の1067mm版で、仮に機関車整備重量は、
& 軌道幅1067/1435と等分の比率であります2/3程度にうまく小さくまとめて、我が国の機関車
& 重量範囲に入っていたとしましょう。
&
& しかし、「軸重」まで検討してくれていたのでしょーか?
&
& 当時の資料がないので、現代の、しかも電気機関車の話になってしまいますが、
& 本邦最強機関車EF200の整備重量は100.8ton,出力6000kw,最高速度120km/hr
& ドイツ・シーメンス製ユーロスプリンタ(ES64)シリーズは4軸86ton,軌間1435mmですが、
& 出力6400kwとほぼ日本のEF200と同等。しかし、最高速度は230km/hrにもなります。
& その点が優速のすべての原因とはおもいませんが、軸重がEF200は16.8ton(機関車重量の
& 16.7%)、ES64は21.5ton(同25.0%)と、作り方のコンセプトがまるで異なります(◆2)。
& アメリカは、ヨーロッパ式の考え方に近いようです。
& でも、こんな機関車は日本では走れません。D52で16.22ton でわが国最大でしたから。
& ところで、アメリカは、二次大戦時、日本と開戦した次の日にはもう日本語学校を開いて、
& 相手国のことを理解しよう、日本兵の捕虜が出たら話ができるようにしておこうと必死でした。
& ただ、D51/D52などの1D1の軸配置「ミカド型」は嫌って、大戦中だけ「マッカーサー型」と
& 呼んでいたそうです。ま、どこの国も、トップはリョーケンがせまそーです・・・
&
& (◆1)米大陸横断鉄道の一つ、ユニオン・パシフィック鉄道には数キロにわたって峠越えが
& ありました。
& このサミットを「知る人ぞ知る<SL”big boy">」が、蒸気機関車の時代がとっくに終わって、
& しばらくしてからも、ディーゼル機関車群を寄せ付けず守り続け、ここだけはDLに容易に
& 置き換えられませんでした。
& かのSLは4-8-8-4という車軸配置で、2組の4軸動輪ユニットを合体しそれに2軸の先輪と2軸の
& 従輪を付け加えたものでした。
& ビッグボーイは4個のシリンダに直接ボイラーから蒸気を供給する単式で、関節式4シリンダ
& 機関車の一種であるマレー式に似ていますが、マレー式が後部シリンダで使用した蒸気を
& 前部シリンダで再び使用する複式機関車である点がまったくちがいます。
& 同鉄道では、ビッグボーイで、3300ton列車を130km/hrでけん引することを考えていました。
& 不可能なことではありませんでしたが、普段は3000ton列車を100km/hrで「のんびり?」
& 引いていたそうです。
& <big boy諸元>
& 4 シリンダ,4-8-8-4(2D-D2)の軸配置で整備重量600ton,
& 動輪周出力6000馬力以上を発生。3300ton列車を130km/hrでけん引(動輪径1.7m)。
& 直接ボイラーから蒸気を供給する単式膨張型関節機関車
&
& (◆2 )アーカイブ」様>EL Column(#1)Previous
& http://www.elarch.net/archive/column/column1.html
&
& しかし、戦後も落ち着くと、電気式ガスタービン機関車が出てまいりまして、こちらは機関車本体が
& 3重連でワンセット(①タービン+発電機)②ディーゼル発電機③燃料処理装置)、これで8500馬力
& しかしこの機関車、総括装置が付いておらず、エンジン改良が進んだ6600PS級ディーセル
& 機関車の重連、3重連にとってかわられていきます。
&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&
<E10の試運転す>
E10形は板谷峠のテストでも33パーミル勾配において4110形の定数の1.5倍、270トンを牽引しましたが、
シリンダ牽引力に対する動輪上重量の不足や細かい運転操作の難しい動力逆転器の採用もあって、
4110形より空転が増え、また急曲線での牽引力の低下が見られるなど、期待したほどの高性能は
発揮できず、逆に線路に与える横圧が問題となり、動輪のタイヤ弛緩も5両中3両で発生しました。
ただ、名誉のため付け加えますが、現場の運転士さんたちからは4110よりは使いやすい機だったと
<E10 転勤族となる>
①庭坂機関区
試運転を経て板谷峠越えでの運用を開始したものの、就役した翌年の昭和24(1949)年4月には、
工事再開が無期延期になるはずだった板谷峠区間が「チャッカリ直流電化」され、早々と
他線に転用されることになりました。
さっさと電化工事が終わってしまったのはおとなのジジョーでしょーか?
②人吉機関区:昭和24(1949)年9月ー25年5月?
肥薩線人吉駅 - 吉松駅間で半年ほど運用されたものの、ここでも大型過ぎて曲線通過の際の
横圧過大の問題を抱えて結局不適とされ、D51形に置き換えられてしまいました。
③金沢機関区:昭和25(1950)年5月ー30年12月
その後、北陸本線石動駅 - 津幡駅間の<倶利伽羅越え(20‰)の補機>に転用され、
製造時の運転方向を変更する改造を行ったうえで、昭和30(1955)年9月の新・倶利伽羅トンネル
開通による勾配緩和新線の完成時まで使用されました。
金沢機関区所属中、休車期間あります。
④米原機関区:昭和32(1957)年ー昭和34年、E10 1廃車ー昭和38年2月残った全車廃車
昭和32年、本形式は米原機関区に転属します。
交流電化区間と直流電化区間の接続のため非電化となっていた、米原駅 - 田村駅間専用の
機関車として運用されます。勾配線用の大型蒸気機関車の運用先としては場違いな区間であり
小運転(平坦線の4.7km)の運用であったが、他に適当な運用場所もなかったのが実情でした。
強力なことと転向不要というタンク機のメリットを生かして短距離をピストン運行していましたが、
戦時規格資材による不良箇所の発生や側水槽が邪魔になりボイラーの検修が困難なこと、
少数機のために予備部品の確保が不便なことなど様々な問題が発生するようになってきます。
ちょうどこの頃、他線区でD50形やD51形の余剰が出ており、これらをもって本形式を置き換えた
ほうが得策と判断されたため、ここを最後に昭和37年、営業仕業を終え、上記38年廃車になりました。
運用期間は僅か14年。
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E10 諸元(nd=No Data)
全幅/全高/全長 nd/nd/14.5m
動輪径 1250mm,9600型に同じ、D51/52は1400mm
シリンダ径X行程 550x660mm,D51/52に同じ
運転重量 102.10 t or 100.2t ? ・・・100.2ならC58と同じ重さ
蒸気圧 16.0kg/平方cm・・・D51/52に同じ
最大動輪周出力 1300PS・・・貨物用D50/D51の1280ps、あるいは急客用C59の1290psに匹敵、
最高運転速度 65km/hr
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<E-10>の話は
1.国鉄・JR悲運の車両たち 寺本 光照 氏著 Can Books E10 pp27-29,2014.2.1
2.鉄道車両データ集 様 http://www2.pf-x.net/~just-r/data/data-top.html
>JR/海外車両トップページhttp://www2.pf-x.net/~just-r/data/jr/jr-top.html
>蒸気機関車データその1,2http://www2.pf-x.net/~just-r/data/jr/SL1.html
http://www2.pf-x.net/~just-r/data/jr/SL2.html
を参考にさせていただきました。
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さてここで、倶利倶利峠(好きにしなさい!)をユーメー足らしめた貢献度の高さは?
今まで出てまいりましたキーワードとして
源義仲、平維盛、E10、牛、九折(つづらおり)トンネル
順番をつけるとすれば、
交通の近代化に常に挑戦し続ける九十九折トンネル>
弱小勢力で大軍を破った義仲さんと牛>パッとしなかった維盛さんとE10
となりましょうか
したがって表題のE10形蒸気機関車 VS 牛は牛の勝ちです。
皆様。長丁場おつきあいくださいましてありがとうございました。
カラスのクンセイ 拝
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<付録の話> 「鉄!この部屋!!:青梅鉄道公園」
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といったことがあったものですから(どっから話してんだ!おい!!なにがあった???)
私は青梅の鉄道公園はズーッと行きたくてチャンスを狙っておりました。
昭和58(1983)年4月8日、ついに念願かなって、「鉄ピク」誌の表紙を飾ってある
鉄道公園に行ってまいりました。
しかし・・・これは・・・E10はボイラのふたが空きっぱなしで、中に雨水でしょーか?
かなりたまっていました<写真ー2>。
<写真ー3>のC51 5も楽しみにしていた1台でしたが、ガラクタ同然・・・
ただ唖然とするばかりで・・・
きちんと整備されている車のほうが多かったのですが
ひどい車は徹底的にいじめられておりました。
なんだかいたたまれなくなって、早々に立ち去りました。
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<写真ー2>青梅鉄道公園(1) E10 2
(,説明の看板は手前のC11の物です。テツピク誌でご確認ください)
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<写真ー3>青梅鉄道公園(2) C51 5の惨状
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鉄道開業90周年記念事業として昭和37(1962)年10月19日、青梅駅北東の永山公園の
一角に開園した鉄道公園です。
開園当初は入場料が無料で、展示されている鉄道車両に自由に立ち入ることが可能でありました。
しかし長年にわたる屋外展示により保存車両の荒廃が進んだことから1997年(平成9年)に
いったん休園し、展示車両の補修整備を実施し、それ以後は小学生以上一律100円の
入場料を収受しています。
以下はほんとのホントのおまけです。
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<写真ー4>青梅駅
。
明治27(1894)年立川ー青梅間に青梅鉄道がはしり始め、大正13(1924)年、2代目駅舎兼新本社ビル
として竣工。昭和19年、戦時国家買収となりました。
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<写真ー5>東青梅駅、青梅から一つ立川寄りの駅で、訪問時複線はここまででした(現在もそのままです)。
<写真1-5>の 撮影日は訪問日と同じすべて昭和58.4.8
今度こそほんとのホントおしまいです。
最後までありがとうございました。
カラスのクンセイ 拝