ただこの、「会社解散」をどこで線引きするの?というと、私はホーリツ家ではありませんし、税理士・会計士でもありませんので、ビミョーな点までは解りません。
そこは今までの通説に従って、あるいは疑問を挟んで皆さんと考えていってみたいと思います。
◎解散第一号は、昭和35(1960)年休止、昭和40年廃止届を出した鹿本鉄道→山鹿温泉鉄道(昭和27[1952]年改称)でありましょうか。
鹿児島本線上の「植木駅」と自社線の植木町の中心に近い「植木町駅」間に小私鉄には不相応な程の長大な築堤を築き、これが有名な私鉄でありましたが、地盤が火山灰土であったらしく、ちょっとした集中豪雨でよくホーカイする築堤としても有名でありました。
崩れるたび、改修しておりましたが、昭和32年の被災は規模が大きく、築堤の修復をついにあきらめ、植木・植木町2.1kmを自社連絡バス、植木町・山鹿18.2kmを鉄道でつなぎましたが、すでに時代はバス輸送へと移行しており、県都熊本までの運輸形態としては「九州産業交通」の山鹿・熊本直通便の利便性に太刀打ちできようはずもなく、加えて老朽化していた鹿本鉄道線は苦戦の連続だったようです。
熊本までのバス路線はもともと鹿本鉄道がもっていたものですが、戦時統合で、バス路線は先の九州産業交通にまとめられたため失ってしまいます。
しかし、今度は九州産業交通が今世紀になり経営が悪化、受け入れ会社を決めたり、新たに作ったりしながら、平成18(2006)年に、持株会社へ移行し、同社の直轄経営部門を「九州産交バス株式会社」「九州産交ツーリズム株式会社」「九州産交ランドマーク株式会社」に分割されました。
時代の流れというものは時として我々の想像の何倍ものスピードで変わっていきますね。
そして鹿本鉄道は、
「鉄道線解散時負債額返済終了済み」と伺っておりましたが、清算事業所の鹿鉄交通が平成24年廃業したようで、この清算のお話どーなんでしょー。
ご存知の方ご教示願えませんでしょうか?
◎2番目は寿都鉄道でしょうか?一応昭和43(1968)年休止、昭和47(1972)年解散となっております・・・が・・・
当鉄道は清算団の清算結了の登記がなされないまま、平成16(2004)年3月8日、商業登記規則第81条第1項第1号の規定(解散の登記をした後10年を経過したとき)により登記官の職権で閉鎖されています。これは同社が実体的会社組織として存在していないことはほぼ確実なのですが、法人格的には消滅しておらず「存続」しており、現状においても会社継続の可能性があり得る、誰かが「やるぞー!」といえばいつでも再開できる権利を持っている、ということデスネ。あまりゲンジツテキではありませんが・・・
私事にいたり恐縮ですが、私、寿都町に小学1-3年、昭和38-42(1963-67)年、までおりましたので決着には興味があります。
◎解散第3号は、由良川河川敷に軌道を敷設した「北丹鉄道」、これはどなたも多分ご異存がないでしょう。昭和46(1971)年休止、昭和49(1974)年廃止。国鉄計画線・宮守線着工まで頑張るつもりでしたが果たせませんでした。
◎4番目は表題の野上電鉄であります。
平成6(1994)年会社解散。同11年法人格消滅。
倒産直前は、使いもしないのに、コンクリート製の架線柱をコーニューしたですとか、周囲に大手私鉄がごろごろしている関西地区なのに、周りに相談もせず、助けも請わず会社を無為無策のうちに潰したですとか、ソリャー、もー、潰れてからも、非難コーゴーでひどいものでした。
確かに、コンクリート柱は赤字交通企業への助成金で購入したもの、老朽化した電車の部品でも取り換えればよかったのに、これではやり方がちぐはぐだといわれても仕方ありません。
それと、一応企業ですから、「儲けること」も考えませんとね。
しかし、この鉄道、昭和46(1971)年、一度鉄道線から撤退宣言をしていましたが、一次オイルショックとぶつかり、鉄道事業廃業を取り消し、さらに昭和50(1975)年、それまでの朝・夕ラッシュ30分毎、日中60分毎をカカンに終日30分毎に増発しました。
これは1日31往復に当たり、昭和47(1972)年に廃線となった加越能鉄道鉄道線である加越線の29往復(*)を上回るもので、地方鉄道の列車頻度としては出色のものと思われます
(*)加越線は廃線の前日まで29往復運転を続けておりました。
軌道線は、ご存知高岡市内線と申しまして、昭和55(1980)年から付近に大伴家持由来の品々が多いことから「万葉線」と愛称をもらいました。
しかし、加越能鉄道が、利用客の著しい減少と経営環境の悪化を理由に廃止とバス代替の意向を示したため、存続を願う高岡市と旧新湊市が中心となって平成13(2001)年に第三セクター会社の「万葉線株式会社」を設立し、翌年、平成14年4月1日から新会社にて正式に運行が開始されました。
路面電車を運営するための第三セクター会社としては日本初の試みとなりました。
さて、悪い癖で、だいぶ遠回りしました。
さすがに、野上・・・運輸省への届けは「のがみ電気鉄道」ですが、古くからの地元の発音は「のかみ」であります・・・廃止間際になりますと、自慢の頻繁運転も昭和58(1983)年には、日中45分間隔、23往復とやや衰えますが、それでも大したものでした。
また、ごく末期には、急に従業員たちの態度も横柄になり、仕事に対する士気も下がっていたとのことですが・・・
何か外的要因を感じませんか?
(旧・野上の会社の関係者の方々へ:旧悪?をほじくり返す気持ちで書いているのではないことだけはご理解ください)
コンクリート柱を購入した・・・助成金の使い方としては無計画すぎる・・・と決めつけるのは簡単です。
いくらなんでも、いたずら半分で買うほど安価なものではないでしょう。私なら、本気で買ったけど、横やりが入って、債権の段取りがくつがえり、従業員が不機嫌になったと考えた方が合理的と思いますけれどね。
ま、これ以上話を重ねても、面白い結果が出ようはずもなく・・・
もっと「野上」だけにしかなかった話やまわりの話をしましょうよ・・・
◇1.和歌山県私鉄にはなぜか疎遠でした
私が旅行を好き勝手に始めたのは、昭和51(1976)年からです。
この頃は、和歌山には、まだまだ中小の私鉄で面白い私鉄が沢山ありました。
時間的に限られた自由時間でしたので、まずは、便利なところ→便利ではないが、特急・直通が一日数本以上あり、目的地に行くルートが2つ以上あること→見物に行く交通機関が県都またはその近くから出ていること・・・などなど・・・この細かいランキングを作るだけでわくわくしてしまって・・・
今から失敗したなーと思うのは、このよーな廻り方をしますと、彼杵半島(長崎・雲仙地区)以外は、半島部がほとんど廻れなくなってしまうことに、だいぶ後になってから気づきました。
下北、津軽、房総、三浦、渥美・・・・・大隅、薩摩・・・もちろん紀伊半島も丸ごと取り残されました。
海南市には南海軌道線がありましたが、昭和46(1971)年全廃ともう少しのところで間に合わず・・・
有田鉄道には富士急から来た国鉄型の180PSディーゼルエンジン2基搭載のキハ56型が馬力を持て余しながら、ダルソーに走っておりました。
紀州鉄道はまだ御坊臨港鉄道から改称したばかり(昭和48年)で、路線も日高川まであり、紀伊御坊では列車交換も行われておりました。
そして、野上電鉄は・・・紀勢線海南駅から200m程離れたところに「日方駅」という起点がありました。
しかし、これではあまりにも海南での乗り換えには不便だろうと考えた方が、野上のスタッフにいらしたのでしょう。
「連絡口」なる「駅?」のようなものを国鉄海南駅のとなりに横付けして作りました。扱いは「日方駅構内扱い」。
ですから、日方から乗っても、連絡口から乗っても、そこの駅名表に記されている次の駅は「春日前」駅でありました。
こういった、一見「お初」の旅行者には解らない仕掛けの駅には、かつて昭和60(1985)年までありました、国鉄・小松島線、小松島港仮乗降場が相当しますでしょうか?
今は、拡大整備された徳島港が開港、小松島港の設備も移転し、取り込み、小松島線自体が廃止になりましたので、当然小松島港乗降場もなくなりました。
国鉄本社設定の乗降場ではなく四国支社の乗降場で型式は単式ホームに機廻し線1本(こちらはホームナシ)、つまり単式1面+2線構造でありました。
野上と違うところは、小松島港線という独立した線区にあり、硬券も販売され、乗車券、入場券も発売されていました。
しかし、根本的な考え方は「あくまでも小松島港駅構内」であったため、切符には、「小松島港駅発行」とあり、当然、料金計算も「小松島港から」となっていました。
初めておいでになった方にはさぞかし「????」であったか、または、何も気がつかなかったかどちらかでしょう。
とにかくかかる、臨時乗降場を駅構内に出店のように設けて乗降の便宜を図ったのはこの2駅だけではないでしょうか?
他にお心当たりのある方は是非ご教示をお願い申し上げます!!!
以下、行ったこともない土地の話をするのはつらいので、参考の教科書として
鉄道ピクトリアル、1985.臨時増刊3月号、<特集>関西地k法のローカル私鉄、Vol35 N03 通巻No445を選びました。
野上電鉄は全線、11.4km。両端駅を含めて14駅。有人駅は起点の日方、当線きっての難読駅「重根・シコネ」、ジュウコンではありません・・・そうお読みになった方は数学のやりすぎですのでしばしの休養をお勧めいたします。多分「しこり」→「おもたさ」から来ているのだと思いますが、国語辞典・漢和辞典いずれにも読みが載っていない読み仮名です。でも雰囲気は伝わってきますネ。紀伊野上(晩年は日中のみの配置)、終点・登山口(昭和33年までは生石口・オイシグチでこちらも難しいですね)。
交換駅は重根、北山、野上(下りが野上どまりの時のみ)です。
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登山口駅(昭和33年、生石口「オイシグチ」より改称)、昭和46(1971)年ころ
デ10形:元・富山地方鉄道デ5010形で、3輌が昭和51-52(1976-77)年に入線。
鉛筆(4H,2H,H,B,2B4B),水彩色鉛筆(Karat aquareil,Vermillion,Staetler、)
ゲルボールペン(ライトブルー、Hi-Tec-05,Pilot)、ペンテル修正液
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「さー、今度こそ和歌山廻ってくるぞー」と出かけて行っても、結局・・・
和歌山までですと、阪和線、南海本線を使って2往復位いたしましたがそこまででした。
思うに、阪和線の、大阪ー和歌山県境の景色が結構お気に入りで、そこで納得して帰ってきてしまう、といったパターンで終わってしまっていたような気がします(好天の山中渓・ヤマナカダニの待合室に座っていると動きたくなくなります。歳のせいではないと思います・・・)
あと、近辺の私鉄と申しますと、近江鉄道くらいで和歌山にはいっておりません。
計画の立て方がまずかったのでしょうね。
特に行きたかったのは、「いかにもアブナイ」と申しますか、「鉄道の役割はすでに終わった地域」の鉄道に乗りたかったと反省しきりであります。
旅客輸送密度、昭和35(1960)年と57('82)年の比較,加悦鉄道のみ京都府
1960 1975 1980 1982 1960年を100%とした値
・ 野上: 3452- 3069 2183 ◆1812 52%
・ 有田: 3657- ◆1422 1252 1015 28%
・◆紀州: 1572- 908 660 635 40%
・◆加悦: 808- 397 278 186 23%
合理化を目指すことになった国鉄は、とりあえず下記の線区(例外もありますが)を対象に、1次線から、廃止していったのは、まだ皆様の頭の片隅に
ありましょう。こういう私鉄から廻ればよかったんですね。
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◆国鉄の1次赤字廃止対象路線:輸送密度<2000人/日未満
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輸送力の小さい、紀州、加悦、北丹は昭和30年代初頭から、有田、野上も昭和50年代に入り急速に輸送密度が落ち込んできているのが分かります。
それでは、この時期近江鉄道、叡電、嵐電、水間はどうなっているかというと、
・近江鉄道:密度2000人を割って、比率も71%ヘ。しかし、都市部の輸送もあり、それが会社の経済基盤を作っているので今後も期待が持てそうなんだそーです。
・叡電:41%になりましたが、まだ3500人/日ものっています。それに、まだ地下鉄道で京阪本線とはつながる前の記録でした。
・嵐電:密度はダントツで、少し目減りした程度です。14500→12232(84%)
・水間:増えています。5461→7749(142%)
今ご紹介した中小の私鉄の中で、現役続行組は
加越能鉄道・軌道線をもとにした高岡市内線、近江鉄道、叡電、嵐電、水間鉄道、そして信じがたいことですが紀州鉄道が営業中です。
親会社は不動産会社さんですが、グループ内に鉄道会社を持っていると、会社の信用度はぐっと上がるのだそうです。だからつぶすわけにはいかないのだt化・・・?
この中で近江鉄道は「撮り鉄気取りが行く(Ⅲ):中編(その2) ~近江鉄道1983」http://www.tsuchibuta.com/hokkaido/kk/13/20130131/20130131.html
私の「黒羽君成」名義の記事がありますのでよろしければそちらをご覧ください。
それ以外は、機会がありましたら行ってみたいのですが、叡電、嵐電は車体が新しくなって大型化されて風情がなくなりましたね・・・
それでは、最後はすこし、盛り上がりませんでしたが、チョット行きそびれてしまった、消えていった和歌山県下の小私鉄の簡単なご紹介でした。
ソレヨカ、今晩から明朝」にかけてまた大雪だそうで、明日のツーキンを考えると憂鬱です。
イマイチ盛り上がらなかった、和歌山県下の中小私鉄たちのご紹介 了