法勝寺鉄道ー山陰の鉄道① | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

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 「記事更新頑張りましょう」といったコメントにはお返事できま
  せん。



<写真1>法勝寺鉄道 フ1、元をたどれば1887(明治20)年、バーミンガム、英国製で、
関西鉄道がその翌年から使い始めた、日本国内最古の木造客車

<写真2 法勝寺鉄道とこの付随客車の説明、フ50についていました>

写真は二葉とも昭和54(1979)年3月21日、米子城址。法勝寺鉄道 「サハ50」と表示あり

<法勝寺鉄道・ほっしょうじてつどう>
半世紀ほど前まで、数えきれないくらいあった、山陰地方の一ローカル私鉄であります。
営業期間は大正13(1924)年から昭和42(1967)年5月まで43年間、鉄道省・米子駅横の「米子町(昭和2年から米子市と改称)からほぼ真北の「法勝寺」までの12.4kmを、開業当初から電車線で開業しました。

終点・法勝寺駅の所在は開業時西伯町、現在南部町と申すところにありました。出だしの営業成績は、なかなか好調と伺っておりました。ところが、味をしめたとゆーのでしょーか、昭和5(1930)年、当線の中ほどの「阿賀」から隣県島根の「母里・もり」までの支線を開通させました。ところがこれが全くの「はずれ」でわずか14年で運休に追い込まれ、戦時不急不要路線として線路供出路線となっております。

また、路線の譲渡、合併、分離も激しい地域で、まず大正14(1925)年、伯陽電鉄と改称。その後、昭和19(1944)年、戦時統合で広瀬鉄道と合併した山陰中央鉄道を経て、昭和28(1953)年地元の日ノ丸自動車に吸収合併され、モータリゼーションの進展とともに昭和42(1967)年5月15日全線廃止となりました。

私が米子城址を訪ねたのは、廃止12年後ということになります。
<「サハ50」と展示されていましたが:正確な名称はフ50>の状態は比較的良好に保たれておりました。後、痛みが強くなり西伯小学校に移されての保存となりました。
元は出雲鉄道(のちの一畑電気鉄道立久恵線)ハフ21です。もっとさかのぼると、出自は1887(明治20)年に英国バーミンガムで製造された鉄道省ハフ4734(=元来関西鉄道が使用していた国内最古の木造客車)になるそうです。

*私の個人的暴論
なぜ、県境を越境して「母里」まで線路を延伸させたのか?
「母里」は1万石とはいえ、廃藩置県まで小大名でした。ですから、電鉄では、「未だ物資の集散地」と思いこんで、実際そうであったのだと思いますが、それを当て込んでの開業だったのではないかと思われます。ところが、物資の流れはすでに「母里から直接海岸線に向かって固定していたのではと拝察いたします。
そこで、多分勝負あった!ということになったのではないでしょうか?