松尾芭蕉 VS 4代目服部半蔵正重 その2 | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

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余生庵 カラスの晴耕雨読ぶろぐ…クンセイになるカモ

松尾芭蕉は、今度という今度、服部半蔵と刺し違えてもいい!!と思うほど頭に血が上っていました。

ま、詳しくは後ほど・・・とゆーことで・・・


元禄2年3月27日[(太陽暦1689年5月16日]に


芭蕉一行は江戸深川の採荼庵(さいとあん)を旅立ったことになっていますが、もちろん、すべて河合曽良率いる10人組のお膳立てであり、芭蕉さんも彼の影武者を立てました。

その他にも、いちおー、旅立ちの儀式らしいことをしなければ、ということで、御丁寧にも旅立ちの句まで準備しました。



行く春や鳥啼魚の目は泪


という、「自分は江戸からの門出に一抹の不安を感じているが、鳥、魚たちも同じように春とわかれを惜しんでいるのだろう、いや、そーにちがいない」といったような自分の弱気な感情を周囲の小動物たちにも押しつけた自然界に対する挑戦的な一句となりました・・・


江戸を出発?してから、芭蕉もその絶景を幾度となく耳にしていた象潟に8/1に到着。

ここまで約2月半を費やしましたが、噂にたがわぬ神秘的な天地に、江戸からの時間など取るに足らぬ些事と思える芭蕉でありました。


一方、政情は事前情報に相違して、東北諸藩の動静には怪しい動きは微塵も感じられません。

気分的余裕もできたのでしょう。後世名句といわれる句も生まれました。


松島は笑うが如く、象潟は憾むが如く

象潟や雨に西施がねぶのはな


の二句を残します。

しかし、1804年の象潟地震の隆起で当時の絶景は全く失われてしまって、特に当時の様子をうかがい知るよすがは、上の2句目のみとなってしまったといわれています。


ちなみに、地殻変動で、記録にのこっている範囲で、以前海だった所が隆起し、陸地、あるいは干潮時、海抜0メートル程度になったところが地名に「潟」が付いています。

日本海側に多いようです・・・八郎潟、新潟・・・他多数


ここで、芭蕉は、年齢的にこんな北方まで来ることはもう生涯ないであろうと段々考え始めるようになっていくのでした。

しかも、おおっぴらで、公費を使い放題使って!!


「曽良・・・」

「は、お頭」

「外の世界では<頭、頭領>は禁句であるぞ」

「は、いつもの癖でつい・・・お師匠様、御用の向きは・・・」

「これから、男鹿半島まで行ってみたくなった・・・」

「しかし、あそこまでおいでにならずとも、確かに秋田の佐竹様、外様衆のなかでは力のある方ではございますが、象潟から約25里も北のところで何かを企てようとは考えますまい。」


「男鹿の繁華なところと秋田のお城の距離は10里と少し。何があってもおかしくはない・・・いや、佐竹殿が何か事を起こすのであれば、お主のゆーとーり、秋田より北で事を起こすは道路もよくなく不利であろうぞ。


わしは、今回ここまできて、もっと北まで行って、色々なものを見て・・・雄物川、鳥海山、八郎潟、男鹿半島・・・旅行記を描いたり、句の材料を探したりと・・・急に思い立って行きたくなっただけじゃ。


公務といっても、これだけ何もなければ、少しのんびりしても許されるであろう。

十人組もつれて、皆で参ろうぞ。」

「ありがたき、お心遣い。」


と、皆が喜んでいるところに、譜代、庄内藩・酒井氏を中継してきた早馬が到着しました。


芭蕉が懸念した通り、手紙の主はやはり半蔵。

「・・・またじゃまが・・・」

とおもったが、公務なのでやむを得ずあけてみれば、

「綱吉公の御生家、館林のお舘が大変である。

貴公はなんとかこの危急存亡の状況を阻止されたい・・・」

とあった。


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あ、ところで御紹介が遅れておりましたが・・・

 徳川綱吉公は、4代将軍家綱公の後を継いで将軍職に就いたのですが・・・

 3代将軍家光公の嫡子であった家綱公が自動的に4代目将軍となりましたが(生年:1641-’80,在位:

1651-'80),死亡時世継ぎがなく、3人の弟たちは、すぐ下の弟(家光公次男)亀松は夭逝、家光公3男・綱

重公は甲府に所領を与えられて、将軍職へ最短距離においでの方でありましたが、35歳で死去(生年

1644-'78)しており、家綱公死亡時には、すでに故人となっており、家光公4男の綱吉公に将軍職が廻っ

てきた・・・といったところでしょーか?

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しょうがないので、芭蕉は

「皆には期待させて申し訳なかった。

これから二手に分かれ<「おくのほそ道」を続ける班、綱吉公とお屋敷の警護に参る班>にわける。

おくのほそ道は、河合曽良、おぬしに私の代わりをやってもらう。歌の技量から、私の代わりが勤まるのはお主しかおらん。」

「待ってください、お頭。私が、我が国の俳句の一番の先生のまねごとをするのですか?勘弁してくださいよ。」

「いや、そんなに心配するでない。大まかな絵、句を呼んできてくれればよい。それより、その場でお主が受けた印象をなるべく沢山、ことこまかに書いてきてくれればよい。

その続きは、伊賀に帰ってから皆で相談すればいいことじゃないか。

いざとなれば、付近の絵なんて、少しくらいいー加減でもほとんどのヒトが分からぬさ」


そして、どこからか沸き起こったのか分からないが、時ならぬ拍手、・・・

照れくさそうに頭を描く曽良・・・

「よし、話は決まったようじゃ。

ほそ道を続ける班は、芭蕉役、曽良役、護衛が1名の3名でいいか?」

あたりから・・・充分そうだ・・・などとぼそぼそ相談する声が聞こえる・・・

「では、責任者を十人組組頭・曽良に任せ、曽良組と(宝塚か?)となづける。」


3:7+芭蕉にわけ、残る8人は館林の御屋敷に急行した。


地図をご覧いただいておわかりいただけると思いますが、確かに名所象潟について一段落したとはいえ、有力外様の佐竹の敵情視察もなし、しかも、手紙には

「一体何事が起ったかさっぱり説明がない。」


てなことで、本文の冒頭の言葉を思い出していただけますか?


松尾芭蕉は、今度という今度、服部半蔵と刺し違えてもいい!!と思うほど頭に血が上っていました。


 ●有力外様の佐竹領は何も調べなくてよいのか?

 ●綱吉公、あるいはその周囲には一体何が起こっているのか?

  →事件の内容が分からないと、人手をどのように分けてよいかわからない?

  →場合によっては応援を呼ぶかもしれないのに・・・

  →象潟での急な反転は不自然すぎる。俳句以外に目的があるように見える。


 ●ひょっとして公費を湯水のように使える、幕臣として恐らく最後のチャンスだったのに

   ダメにしやがって・・・テヘ


      続く・・・恐らく、多分次回最終回です。

           細切れですいません・・・