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玉野市営電気鉄道の合理化サイシューヘーキで内燃化されてしまった、架線下を走る「キハ101(国鉄キハ41097→三岐鉄道キハ81→玉野市営)」。玉ー玉遊園地前。昭和39(1964)年
鉛筆:4H,2H,H,F,HB,2B,4B
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え?なぜ、(その1)がないのにいきなり(その2)なのかって?
(その1)はですね~、「河川敷鉄道」では、そのスジの王者「北丹鉄道(京都府)」がはいろうか?と、私なりのランキングがありまして・・・
河川の下流域の河川敷は広く平らな土地が広がっていますが、ひとたび大雨が来ると、すぐ冠水しますし、恐らく年中、固まることのない、足場がフニャフニャ地面の土地でしょー。
唯一、中小鉄道会社さんに、そこを利用するメリットがあるとすれば、先ほどらい申し上げている通りの土地の条件ですので、あまりだれもほしがらない→地代が安いということになります。
「北丹鉄道」は一匹オオカミの会社で、河川敷に軌道を敷いたり小私鉄としては、出来る限りの、努力をしましたが、鉄道部門が廃止されると、土地・旧車両の買い入れの音頭取りもなく、日本の私鉄史上2番目の会社解散という形で終焉を迎えました(①例目:鹿本鉄道→山鹿温泉鉄道、会社更生法申請・清算終了、?寿都鉄道:廃止は昭和42(1967)年ながら未だに清算事業団が動いているらしいと?③野上電鉄)
会社解散は、今まで私の知る限り、4社しかありません。
さて、いつものように、長ーーーーーーいマエフリが終わり、本日のヘタクソ・スケッチですが、本四連絡橋ができるまで、四国への出発口でありました「宇野」は、実は昭和12(1937)年まで目立つ町ではありませんでした。
ところが、その年度に「日中戦争」が勃発、隣接する「三井造船所のある玉地区」との往来が急に忙しくなり、両者は昭和15(1940)年合併して「玉野市」となり、倉敷、津山を抜き去り、一瞬で岡山県下では、県都に次ぐNo2の都市になりました。
そーしますと、今度は、今まで、工員さんを運んでいましたバス(両備バス,6/6:長門勇さんのところも見てね!)に「ガソリン支給制限」がかけられるようになりました。しかし、造船所の方は、日々増産を促されますし・・・困ってしまった宇野の市長さんは造船所を通して海軍に泣きつきます・・・
すると・・・本来この鉄が必要な時期に認めらるわけがない鉄道が「三井造船所への引き込み線」という名目で建設されることになりました。
昭和19(1944)年工事開始。一度「テツドーを敷く」となったら大突貫工事です。
イーとこまで行ったんですけど、第一工区の2/3程度の出来上がりで終戦になってしまいました。
それでも、戦後は昭和21-23(1946-48)年までに、貨物側線として整備されていきました。
昭和23年以降、またしばらく使われない時期があったのですが、そこに玉野市が再び目をつけます。
なぜ?
まだまだ「ガソリン/不足がちの石炭の方が鉄道を電化するよりも高上がりで、バス代よりも高い」。
地方の中小私鉄では、有り金はたいて電化を必死で行いました・・・淡路交通鉄道線、越後交通栃尾線・・
そして、ついに、「宇野ー水島間」31.4kmという遠大な、「備南電気鉄道」が昭和25(1950)年4月1日発足します。
まずは、宇野ー玉間3.5kmに着手、やっと昭和28年4月5日に開通。実は資金難のため途中で工事は何度かストップしていたのです。
最終的には昭和31(1956)年3月24日会社解散、玉野市に移管。「玉野市営電気鉄道」として再出発しました。
市営の高速(といえますか議論が分かれますが?)電車線としての路線をもっていたのは、ここと、荒尾市(こちらも営業キロ5.1kmというチビ鉄でした)のみであります。
玉野市営に移管後も、路線延長など、財政難から脱却すべくいろいろな抜本的案が出されましたが、それ以上に生活様式の変化、とりわけ、モータリゼーションのスピードが速く、もはや、市営鉄道の有利な点といえば、同一区間の運賃がバスより安価であるという程度になってしまいました。
チョット色気をだして、市営に移管時に、「古塩浜信号所」を作り、ピストン輸送から、2個列車の行き違いができる体制にしたことと(運転本数が約2倍に)、昭和35(1960)年、「白砂川…水深が浅い川がつづいていたそうですが・・・」上にナガーいコンクリート橋を約1kmに亘ってつくり、(上の絵の案内軌条のように見えるものがそれです)玉ー玉遊園地間0.5kmを延長、さらに先への延伸を狙いますが、予算が下りず、どちらも焼け石に水となってしまいます。
挙句に、周囲の中小私鉄からは、「河川敷に橋げたが低い橋のようなもの??を1km長も作っちゃって、列車を走らせることができるなんて、さぁ~すがァ!お役所仕事でなくてはできないことだネ~!!」とサンザン皮肉られたとか。当事者さんとしては懸命でしたのに、ふんだりけったりでしたね・・・
それでも、収支は急降下で、最後の手段で、昭和39(1964)年、電車をあきらめます。電気設備が老朽化しつつあること、電気設備要員を削減、等など、付帯する合理化にもつながります。三岐鉄道(キハ101)、熊延(ゆうえん)鉄道(キハ102,103)等が集められましたが、もはや、収支が好転する見込みがあるはずもなく昭和47(1972)年3月31日、鉄道部門は終焉をむかえました。
(先にご紹介の荒尾市営鉄道は一足先の昭和39(1964)年に廃止になっております)。
なお、現在まで、電化線を合理化のため内燃化(ディーゼル化)した鉄道で蘇った鉄道は一社しかないのです。
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●羽後交通・雄勝線:奥羽線・湯沢ー西馬音内8.9kmを同社・横荘線が昭和46(1971)年7月20日に廃止
になり、そちらの設備を再利用。雄勝線の電車営業は中止を経て、昭和48(1973)年4月1日廃止
●栗原電鉄が「くりはら田園鉄道」と第3セクター化した平成5(1993)年12月15日に内燃化。平成19(2007)年4月1日廃止となりました。25.7営業km。
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●<名鉄の話>
皆さんも多分御記憶に新しい、名鉄・美濃町線、揖斐・谷汲線の全廃。それと相前後して閑散区間の整理をしていました。平成12(2000)年、路線の廃止が、監督局の許可制から届け出制に変わりました。閑散路線の扱いにチョット困っていた名鉄さんは・・・
◆昭和59(1984)年:広美(22.3km)・八百津線(7.3km)にレールバス導入、ワンマン化。
八百津線2001年10月1日廃止
◆昭和60(1985)年:三河線・猿投ー西中金(8.6km,山線)、平成2(1990)年:同線・碧南ー吉良吉田(16.4km,海線)にレールバス導入。三河線の山線・海線とも2004年4月1日廃止。
◆このほかに2001年10月1日には、八百津線のほかに、竹鼻線の江吉良ー大須間(全線17.0kmのうち6.7km<39.4%>、谷汲線(11.2km)、揖斐線(18.3km)が廃止になっています。
しかし、このなかで、一旦内燃化を経て廃止された線区は八百津線、三河線の両端線区(海線、山線)と意外と少ないかもしれません。「閑散区」といっても、沿線人口が比較的多いため、レールバス導入には躊躇する理由があったのかもしれません。
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□最後にレールバスを導入されたけれど結局元の電車列車に戻ってしまった例をご紹介します。
近江鉄道では、電力費節減を目的に、名古屋鉄道からレールバスを購入。閑散区の、本線・八日市ー貴生川間22.4km(米原・貴生川間47.7kmの47.0%)に、昭和61(1986)年4月1月から就役させました。
しかし、コスト節減効果が思った程大きくなく、通勤通学時間帯の混雑対処困難や、あまりの軽量で踏切が正常に作動しないなど、小型車ゆえの弊害の方が目立ったため、導入から10年目、平成8(1996)年で使用を断念、以前の電車列車のみの路線となりました。
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ちょっと今回はのめりすぎた記事になりましたことをお詫び申し上げます。
次回からは、いつもの、違った意味での突っ込んだ話題を皆様にご提供していきたいと考えております。
