皆様、ご存知、奥羽地方平定の立役者であります。
坂上家は、田村麻呂さんの祖父の代から武勲のお家柄であったようです。
お若いころに、陸奥国では蝦夷との戦争が激化しており、延暦8(789)年には紀古佐美の率いる官軍が、阿弖流為(アテルイ)の率いる蝦夷軍に大敗。
田村麻呂さんはその次の征討軍の準備に加わり、延暦11(791)年に大伴弟麻呂を補佐する征東副使(副将軍)に任じられ、延暦12(793)年に軍を進発させました。
この戦役については『類聚国史』に「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」とだけありまして、田村麻呂さんは四人の副使(副将軍)の一人ながら中心的な役割を果たしたとされています。
延暦15(796)年には陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して戦争正面を指揮する官職をすべてあわせ、加えて翌年には征夷大将軍に任じられました。
延暦20(801)年に遠征に出て成功を収め、夷賊(蝦夷)の討伏を報じ、
延暦22(803)年には志波城を造りました・・・志波リンゴ、うまいですね~
延暦23(804)年に再び征夷大将軍に任命され、三度目の遠征を行おうとしましたが、藤原氏から「軍事と施設が民の負担になっている」とヨコヤリをいれられ(藤原っていつもうるさい)、桓武天皇がこの意見を認めたため(いつも自分の意見をもたない)、征夷は中止になっています(徳政相論)。
田村麻呂さんは活躍の機会を失いましたが、いままでの、連戦連勝の戦功が効いたのでしょう、本来は臨時職である征夷大将軍の称号をこの後も拝命し続けます。
そして、昇進もしますが、チョット考えられないスピードです。
武勲だけではなく、桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇、お仕えしたすべて天皇の信任が厚かったのでしょー。
延暦24(805)年には参議、大同元(806)年に中納言、弘仁元(810)年に大納言となり、この間、大同2(807)年には右近衛大将まで登りつめました。
この上は、もう太政大臣しかありません。たった5年間で衆参両議院議長クラスから内閣官房長官に「推薦」で昇進したことになります。
また、田村麻呂さんは京都・清水寺(市街地に初めてできた寺、フースイオタクの桓武天皇が魔よけに京都の鬼門・北東に作るよう命じたといわれています)を創建したと伝えられ、
他には大同元(806)年に平城天皇の命により富士山本宮浅間大社を創建していると伝えられています。
ここまで縦横無尽の活躍をしてきた、田村麻呂さんですが、度重なる長征がこたえたかのように、弘仁2(811)年に54歳で病没しております。
嵯峨天皇は哀んで一日政務をとらず、田村麻呂さんは死後従二位に列せられました。
平安朝といえば、文の菅原道真、武の坂上田村麻呂といわれているほどです。
ハイ、ここ試験に出まぁ~す。
子孫に坂上おじゃる丸がいるのは皆様周知の通り。