万葉集では、悲しみが深まるとき
「愛(かな)しみ」になり、
「美(かな)しみ」になる。

「愛し」は「うつくし」と読まれることもある。

「かなしみ」は、
秘められた情愛の発見や気づきへ人を導くだけでなく、
秘められた美や感性を照らし出すことがある。


かなしみの門をくぐった人は、
目の奥にもう一つの眼を開く。

目で見る者に、悲しむ人は硬い殻に
閉じこもってるように映るかもしれないが、

心の眼で視る者は、悲しみのその底に、
いつも「愛しみ」があることを見過ごさない。




海外の友人と(AIを駆使して)

意思の疎通をしようとすると、

言葉の問題で混乱することが時々ある。


(まあ、時々じゃないだろうという話もあるが)

面白くて意味深長な言語の違いのひとつが「いつか」だ。


いつかそんなことがあったんだ。


と言うとき、つまり過去のいつかといつかそうなるといいな。


と言うとき、つまり未来のいつかは

英語ではone day と someday に区別して使われるケースが多い。


言うなれば、過去に実際に起きたいつかのその日は、すでにone dayという具体的な日の中に保管されているのだ。


何年何月何日と書かれた箱があって、その箱の中にその日起きたこと、天気、気温、記憶というか思い出というか、そんなものたちが一緒に入っているという感じだ。


one dayに比べれば、過去の「いつか」は、

かなりあやふやで密やかで、詩的な気分さえ感じる。


それが本当に起きたことなのかどうかもわからず、日付が明示された箱の中に入れられると、腹を立てるかもしれないという気分。


one day と somedayを区別して使ったほうがいいと知ってからも、わたしはたびたびふたつを混ぜて使ったりする。そのたびに相手は過去と未来というすきまに混乱するのだけれど、




過去のいつかの中にはone dayと呼べないものがある

という不都合をうまく説明できなかった。


起きてもいないことすべてに具体的な意味を付与できないように、すでに起きたことのすべても鮮明で正確な意味があるとは言えないのじゃないか。


時が流れて、様々な色で描かれているようでも、

ある日、別の方向から眺めると、

完全に違う姿になってしまう、いつか。



わたしには起きたけれど きみには起きなかったこと。


きみには微かだけれど わたしにははっきりしていたこと。


わたしには重いけれどきみには軽かったこと。


きみには忘れられたけれど わたしにはしっかり刻まれた、


その過去のいつかはただの一日ではなく、


幾重にも編まれた日々の縦糸と横糸の中に染み込んで、


未来のいつかを凝視している。



たとえば、そのいつかはいつだったのか。


船たちは港に戻り、愛は羽ばたき、


わたしの前にはあなたがいた。



いつかという言葉ほど悲しい言葉は珍しい。


すでに去ってしまった過去のいつかであれ、


まだやって来ない、


もしかしたら永遠にやって来ない未来のいつかであれ。