みんな言葉にはしなくても、それぞれに抱える事情や譲れない価値観があって、日々、生活している。

旅に出ることは、そんな
日々にまみれた自分自身か一旦離れて

一番大切なことや
存在の中心を思い出すことかもしれない。




三宅唱監督『旅と日々』を観てきました。

2025年鑑賞した中で個人的に
国宝を抜いて邦画ベストと思った一作。



主人公は脚本家、言葉を使う仕事。

作品前半は彼女が【つげ義春】の漫画「海辺の叙景」を原作として脚本を書いた劇中作が流れる。

冒頭で主人公が「後部座席で女が目を覚す」という下書きをノートに書いていて、それが映像になっていく場面。


紙の上にあるときは、
ただの言葉に過ぎない わけですが、

それが 実際のリアルな映像に切り替わると、

脚本にはひと言も書いていない波の音や、
雲の流れ、俳優の汗や肉感といったものが、
いっぺんに立ち上がってくる。




この冒頭からこの映画が

「言葉と余白についての映画」

であることが暗示される。



途中 主人公による下記のような

一人称語りが挟まれる。




「日常とは 周囲のモノや感情に

名前を与え 馴れ合うことだ
。


言葉から遠いところで

そのまま ずっと佇んでいたい…


しかし いつも必ず

言葉につかまってしまう。



私は言葉の檻の中にいる。」




このように語る主人公は

脚本家という言葉を使う仕事をしていて、

何か人生に行き詰まりを抱えている。


そして

「旅は、言葉に追いつかれないように…

言葉から離れるためにあるのかもしれない」

と彼女はいう。


多かれ少なかれ

言葉を使って仕事をする者は

ジレンマを抱えている。


書くことは 未知のなにかに

言葉(既知)を与えることだ。


脚本家である主人公も また言葉を用いて、

誰かを、何かを

つかまえて名前をつけようとしている。


しかし 名前をつけたとたんに、

未知は未知でなくなり、

そこにあった驚きや戸惑いは

その輝きを失ってしまう。


このブログも映画を観た時の

なんともいいようのないフィーリングを

伝えようとしているのだが、

すでに言葉に追いつかれようとしている。


そうやって 未知の驚きが徐々に失われて、

私たちは 社会人になり、言葉の檻の中にいるのだ。


もし言葉の檻から出ることを望むなら、

「言葉を捨て、旅に出よ」と

この映画は 静かに伝える。


目的より
流される事を楽しむ。

思い出は 記録より
温もりとして留める。

旅が与えるのは
思考(言葉)の休符ではなく、
生命の呼吸なのかもしれない。


寄りで見たら悲劇でも、
引きで見たら人生は喜劇。

何気ないユーモアとほんのりとした
哀愁が心にくる良い作品。







今日のブログの内容が響いた人は、
ぜひ映画館で観てみてほしい。