↑ 大浴場から部屋に戻る経路に「屋外プールとカラオケコーナー」が有る ↓

 

屋外プールは、シーズン前なので使用されていないが防火用水の為なのが水が張られていた。


 

カラオケ文化
カラオケコーナーはかつてbar(お酒を味を楽しみながら飲むことを目的とした酒場)として使用されていた場所である。



 

前身
現在のカラオケ形態の出現以前の1950年代から1960年代には、一部の喫茶店において、店主や専属の生バンドが楽器を演奏して客が歌う「歌声喫茶」という業態が存在していた。


 

ただ、当時の社会運動や左翼運動(特に日本共産党が中心となって主導したうたごえ運動)との連動が強く、現在のカラオケのように時節の流行歌を歌うものではなかった。

 

飲食店などにカラオケ装置が設置され始め、社会運動などが退潮した1970年代には、ほとんどの「歌声喫茶」が姿を消した。


 

酒場の余興
1970年代のカラオケは、スナックなどの飲食業者の店舗や、ホテルの宴会場などに置かれることが多く、もっぱら酒席の余興という位置づけであった。


 

この時期の利用者は酒の飲める世代、つまり20代以上であるが、具体的にはより年齢層が高い層であり、収録曲の多くが演歌であった。


 

また、1971年~1977年のFM音楽番組「日立サウンド・イン・ナウ」の人気コーナー「カラオケ・コーナー」があった。


 

パーソナリティーは音楽家のすぎやまこういち。
内容は、放送当時ヒットしている歌謡曲を市販のレコードで流し、すぎやまのトークで楽曲 の作詞、作曲、編曲、歌い方などの解説があり、その解説の後にオリジナルで使用されている「カラオケ」をフルで流すというものである。



 

当時は音楽用CDはまだ存在せずアナログレコードの時代で、オリジナルの「カラオケ」の存在や、カラオケという言葉は世間の人には知られていなかった。


 

この「カラオケ・コーナー」と、生中継の「カラオケ・ゲーム」などの放送で、同番組の聴取者を中心に「カラオケ」という言葉や、歌謡曲などに多用されるカラオケ音源の存在が知られていくことになる。

大瀧詠一は1976年発売の布谷文夫with ナイアガラ社中のシングル「ナイアガラ音頭」のB面に本来のイントロの前に新たにイントロを加えて「あなたが唄うナイアガラ音頭」と題してカラオケ音源をいち早くシングルに収録している。


 

カラオケボックスの広がり
1980年代前半にレーザーディスクが開発され、それまで伴奏のみであったカラオケに初めて映像・歌詞表示がされるようになった。

レーザーディスクの知名度に合わせて「レーザーカラオケ」と呼称して展開、1980年代半ばになると、それまでは酒場や喫茶など飲食店舗の付帯設備とされていたカラオケから、カラオケのみを専門的に提供するカラオケボックスという事業形態が誕生した。




飲食のついでにカラオケを楽しむのではなく、カラオケをするための場所であり、それ以前の概念を根底から覆す画期的な業態とされた。

カラオケボックスは、学生のコンパやサラリーマンなどの懇親会の二次会の会場としてよく利用される、日本人の娯楽の代表の一つとなった。


 

兵庫県神戸市において、港に置き去りになった不要コンテナの再利用として出た鉄道コンテナや荷室を改造して設置したのが始まりとされる。

1990年代以降は、通常の建築物内にカラオケ専門ルームを設えるタイプが主流となった。



 

黎明期のカラオケボックス成功の要因として、
音楽、とくに歌唱を楽しむための防音施設を気軽に利用できるようにしたこと。
飲食店でカラオケをする場合、不特定多数の客と共に歌うことが多い。

それに対してカラオケボックスは個室であるため、他の客に気を使うことなくカラオケに専念できる。また、練習場所としても活用できる。

日本の音楽市場が急速に成長した。特に1960年代以降のアイドル文化、グループサウンズの流行によって若年層へ普及した。

 

 

機器の開発により、劣化のない音源、自動で表示される歌詞、曲の入れ替え自動化とその高速化。などがあげられる。

1990年代の日本でシングルCDのミリオンセラーが多発した背景の一つとして、カラオケボックスや通信カラオケなどのカラオケの普及を挙げる意見もある。

テレビ番組での企画・結婚式での余興・学校の文化祭でのカラオケ大会など、多方面でカラオケが活躍の場を広げた。


 

またカラオケの流行に伴い、その楽曲のCDシングル自体にもカラオケが収録されるようにもなった。これにより、特別の機材がなくとも自宅でカラオケができるようになった。