第78回入谷朝顔まつり
入谷の朝顔まつりは『夏の風物詩』として台東区の入谷・下谷界隈に於いて本年は初夏の7月6日、7日、8日の三日間開催されました。


 

この「入谷の朝顔」が有名になったのは江戸末期の頃からですが、大正二年に植木屋(植松)の廃業を最後にとうとう入谷の地から姿を消しました。


 

それから35年がたち戦後まもない昭和23年より7月6・7・8日の三日間、江戸情緒豊かな夏の風物詩として入谷の朝顔市が復活しました。


 

入谷朝顔市 
真源寺の名物である朝顔市で有名になったのは明治時代に入ってからで、江戸後期頃から当地で盛んだった朝顔栽培を人々に見せるために、当寺院の敷地内で栽培農家が披露したことがその起源である。


 

明治時代を中心に、入谷界隈で朝顔作りが盛んになり数十件が軒を連ねたという。

 

↑ 入谷鬼子母神(真源寺)境内 ↓

 

当地の朝顔は全国でも指折りの出来であったといい、朝顔のシーズンになると、入谷界隈には朝顔を見物しに、多くの人でごったがえしたという(無論植物園などと違い、商品として栽培しているのでそのまま商売となった)。

その後、宅地化の流れにより入谷界隈での栽培が難しくなり、大正2年になって最後の栽培農家が廃業して、朝顔市は廃れてしまったが、戦後1948年に、地元の有志と台東区の援助の元、再び入谷で朝顔市が復活することになり、現在では例年、七夕の前後3日間(7月6日、7日、8日)に真源寺と付近の商店街で開催され、下町の夏の風物詩としてすっかり定着している。


 

この入谷の朝顔が有名になったのは江戸末期の文化・文政の頃です。


 

最初は御徒町の下級武士、御徒目付の間で盛んに栽培されておりましたものが、御徒町の発展と江戸幕府の崩壊に伴いまして、入谷に居りました十数件の植木屋が造るようになります。


 

そしてその出来栄えが大変素晴らしかったので、明治中期になりますと、往来止めをしたり、木戸銭を取って見せるほど有名になります。


 

なぜ入谷の朝顔がこんなに盛んになったのかと言いますと、入谷田圃の土が朝顔造りに適していたこともありますけれども、当時流行しました朝顔と言いますのは「変わり咲き」です。

 

この「変わり咲き」と言いますのは朝顔の花が、桔梗の花のように咲いたり、牡丹の花のように咲いたり、二重に咲いたりして、花粉の交配によって色々な花を咲かせる事ができたので、最盛期には一千種類もの朝顔があり、変化にとんだ花を咲かせ楽しませてくれてたのであります。出典:(入谷朝顔実行委員会)


 

入谷鬼子母神の由来(真源寺)
入谷鬼子母神は満治二年(1659年)静岡県沼津にあります大本山光長寺の第二十世高運院日融上人が、本山に勧請してございました一寸八分の御木像の鬼子母神様を持ち、江戸に出て、現在の地に仏立山・真源寺を建立し開基と成ります。

 

この鬼子母神像と言いますのは大本山光長寺の開基である彫刻の名手、中老僧日法聖人が彫られ、師匠でございます日蓮聖人が開眼せられたと伝えられています。


 

またこの鬼子母神様は俗に「恐れ入谷の鬼子母神」と言われ、その由来については當山にあります縁起に、「さる大名家の奥女中が腰に腫れ物ができてしまい医者に見放されてしまったが、入谷にある鬼子母神が大変御利益があると言うので、二十一日間の願をかけ毎日お参りをしていたところ、満願の日の帰りに、橋でつまづき欄干のえぼしに腰を打ち付けてしまった事で、腫れ物の口が破れて膿が出てしまい、時をへずして全治した」とあります。


 

これを江戸の中期に活躍しました狂歌師でございます太田蜀山人が聞き付け、その御利益に恐れ入ったと言うことで「恐れ入谷の鬼子母神」と洒落言葉で言ったのが江戸っ子の間で流行になり現在までも使われています。