日本相撲協会は2025年1月17日午前に、照ノ富士の現役引退と年寄 照ノ富士の襲名を承認したと発表しました。

モンゴル出身の照ノ富士は親方になるために必要な日本国籍を令和3年に取得していて、今後は後進の指導にあたることになります。
大相撲で10回の優勝を果たした横綱 照ノ富士が現役を引退し、年寄・照ノ富士を襲名して後進の指導にあたることになりました。

平成23年5月の初土俵からおよそ14年の土俵生活について「良いときも悪いときもありましたが、相撲人生を2回楽しむ良い機会になったと思う。

横綱にあがるまではがむしゃらにただ強くなりたい横綱になりたいという思いで稽古やトレーニングに励んできたが、横綱になってからは相撲の奥深さ、国技としてあるものがどういうものなのか、ちょっとずつ感じるようになり、深く思うようになりました」と振り返りました。

そのうえで、横綱になってからも多くのけがに悩まされたことについて、「最初から横綱になるときは長く相撲をとれないと思っていたが、まわりのファンの方やいろんな方の支えがあり、まだやれるっていう気力があったので、その気持ちだけでずっとやってきました」と話していました。

相撲をとれる体じゃない
引退を決断した理由については「14年間の激しい相撲人生だった。
本当に自分の中でできる限りのことを尽くしてきたが、今場所では思いどおりの相撲ができなくなり、これ以上、中途半端な気持ちと体で土俵に立つべきではない。
相撲をとれる体じゃないなと感じ、引退することに決めました」と話しました。

引退決断の背景
照ノ富士はけがと持病の糖尿病が悪化し、満身創痍の体の限界を感じたことに加え、若く力のある横綱候補の大関3人など次を託す世代の台頭に一定のめどがついたことなどから引退を決断したものと見られます。

満身創痍 体の限界
照ノ富士は近年、けがが重なり、3年前の秋場所後には4回目となる両ひざの手術を受けたほか、10回目の優勝を果たした去年の名古屋場所以降、再び、ひざと腰の状態が悪くなりました。

満足な稽古ができなくなったことに伴い汗をかけないため血糖値が下がらず、持病の糖尿病が悪化する悪循環となっていたことを師匠の伊勢ヶ濱親方も明らかにしていました。
それでも照ノ富士は「体が続くかぎりはカバーできる努力は自分の中でベスト尽くす」と、初場所前には横綱審議委員会の稽古総見や出稽古を行うなどして調整しました。
さらに複数の関係者に対して「11回目の優勝をして引退する」と話すなど、目標を公言してみずからを奮い立たせ、この初場所にすべてをかける覚悟を示しました。
しかし、場所前の稽古で右ひざに水がたまり、その後に腫れた影響で曲げられなくなったほか、右ひざをかばったことで腰も痛め、相撲を取れる状態ではなくなったということです。
↑ 初場所四日目 現役最後の一番となった 対翔猿戦 ↓
後進の台頭に一定のめど
横綱白鵬が引退して以降、一人横綱として3年以上大相撲界を背負ってきた照ノ富士は、10回目の優勝を果たした名古屋場所のころに行ったNHKの取材に対して「きょうにでも辞めたい。
そっちのほうが楽なので」と心境を吐露した一方で「次の横綱が出てこないと自分の中で辞められない」と言及する場面もありました。
そうしたなか、去年の秋場所では当時関脇だった24歳の大の里が2回目の優勝を果たし、場所後に大関に昇進。

続く九州場所では27歳の大関 琴櫻が初優勝を果たしました。その琴櫻と千秋楽まで優勝を争った25歳の大関・豊昇龍を含め若く力のある大関が横綱不在のなかで、結果を示してきました。
引退を決断した背景には、あとを託す後進の台頭に一定のめどが立ったこともあると見られます。
照ノ富士 これまでの歩み
照ノ富士はモンゴル出身の33歳。平成23年5月の技量審査場所で初土俵を踏み、平成26年の春場所で新入幕を果たしました。
身長1メートル92センチ、体重およそ180キロの体格を生かした力強い四つ相撲で、平成27年夏場所で初優勝を果たし、場所後に大関に昇進しました。
しかし、ひざのけがや糖尿病などで休場し大関から陥落するとその後も休場が続き一時は序二段まで番付を下げました。
それでも師匠の伊勢ヶ濱親方の説得もあって、けがや病気の回復に努めて徐々に番付を戻し、令和3年の夏場所で大関に復帰し、この年の名古屋場所のあと、第73代横綱に昇進しました。

大関から平幕以下に番付を下げてからの横綱昇進は初めてでした。
満身創痍のなか、強い精神力でここまで3年以上「一人横綱」として土俵を支えてきました。
スピード記録で大関に
照ノ富士は来日後は強豪の鳥取城北高校に入学し、その後、間垣部屋に入門しました。
平成23年5月の技量審査場所で若三勝のしこ名で初土俵を踏み、間垣部屋の閉鎖に伴って伊勢ヶ濱部屋に移籍したあと、しこ名を今の照ノ富士に改めました。
体格を生かした力強い四つ相撲を持ち味に横綱 日馬富士をはじめとする兄弟子たちとの厳しい稽古で力をつけて順調に番付を上げ、平成26年の春場所で新入幕を果たしました。
1年後の平成27年春場所では小結の地位を通り越して関脇として新三役に昇進して、この場所で13勝をあげ続く夏場所で初優勝して場所後に大関に昇進しました。
初土俵から所要25場所での昇進は年6場所制となった昭和33年以降、幕下付け出しの力士を除いて3番目に早いスピード記録となりました。
伝達式の口上で「今後も心技体の充実に努めます」と決意を述べ、横綱候補として期待されました。
大関陥落も不屈の心で横綱に
スピード出世した照ノ富士ですが、大関昇進後は「心技体」の「体」の部分で苦しみました。
ひざのけがや糖尿病などで稽古のできない状態となり、平成29年の名古屋場所からの連続休場もあって大関の地位から陥落するとその後も休場が続き、序二段まで番付を下げました。
大関経験者が幕下以下に陥落するのは昭和以降では初めてのことで一時は引退も考えました。
それでも師匠の伊勢ヶ濱親方から「辞めるか辞めないかを決めるのは病気を治してから」などと説得されて思いとどまったといいます。
もう一度、親方を信じてやってみよう
妻や、部屋のおかみさんなど周りの支えもあり再び奮起しました。
けがや病気の回復に伴って少しずつ稽古を再開して、しこやすり足、筋力トレーニングなどで下半身を徹底的に鍛え直し、番付を戻していきました。
令和2年の名古屋場所では前頭17枚目の「幕尻」で幕内に復帰し、およそ5年ぶりとなる2回目の優勝を果たして復活を印象づけました。
三役に復帰した九州場所以降には「ここからの3場所が大事。元の位置にとりあえず戻りたい」と何度も口にし、どん底からはい上がってきた不屈の精神力で関脇だった続く令和3年の春場所で優勝し陥落から3年余りで大関に復帰しました。
続く夏場所でも連続優勝を果たすと、綱とりに挑んだ名古屋場所で千秋楽に横綱 白鵬との全勝対決に敗れはしたものの好成績を収めたことが評価されて場所後に第73代横綱に昇進しました。
大関から平幕以下に番付を下げてからの横綱昇進は初めてでした。
横綱昇進後もけがや病気で休場が続く時期がありましたが、ここまで3年以上、1人横綱として相撲界を支え、通算で10回の優勝を果たしました。

宮城野親方「よく頑張った、お疲れ様、と声かけた」
照ノ富士が所属する伊勢ヶ濱部屋の部屋付きの親方で元横綱 白鵬の宮城野親方は「きょう朝稽古で報告を受け、「よく頑張った、お疲れ様」と声をかけた。
1回、どん底のさらに下まで下がって、そこから復活して一気に横綱になった。そこは私も想像できないというか、理解できない奇跡というか、そういうものを成し遂げたのは今思えばすごい」とねぎらいました。
そのうえで「指導に熱があるのは感じたし、教えるのはすごく上手。私も勉強になるものがあるし、親方として指導して相撲界がさらに盛り上がるように1日でも早く強い関取、横綱・大関を育ててほしい」と今後への期待を寄せました。

音羽山親方「経験すべてが指導に必ず役に立つ」
同じモンゴル出身で、元横綱 鶴竜の音羽山親方は「あの体でよくやったと思う。いろいろなけががあるなかで出場すれば結果を出すのはすばらしいこと。
けがを乗り越えて、横綱まであがったのはなかなかできないこと」とたたえました。
そのうえで「けがをして、番付を下げて休んだり、いろいろな経験をしている。そのすべてが親方として指導に必ず役に立つ。
照ノ富士みたいな雰囲気を持った力士を育てていってほしい」と親方として後進の指導にあたる今後に期待を寄せました。





