高速入り口
二つの主要な高速道路がアテネを起点としている。
A1/E75号線はピレウスからアテネ都市圏を通り、ギリシャ第二の都市テッサロニキへ向かう。
A8/E94は西側のパトラス方向に向かい国道のGR-8Aと統合されている。完成するまではGR-1やGR-8が多く使われていた。

さらにアテネ首都圏では規格が良い 高速道路Attiki Odosが整備されている。
主となる区間は西郊の産業地区エレウシスからアテネ国際空港まで二つの環状道路はアイガレオ環状道路とイメットゥス環状道路と名付けられ、それぞれアテネの西側と東側で供用されている。
Attiki Odosの総延長は65kmでこれはギリシャの都市圏高速道路では最大である。

アテネ国際空港
正式名称は、エレフテリオス・ヴェニゼロス国際空港。

現在、日本からギリシャへの直行便は運航されていません。
そのため、ヨーロッパや中東の空港で乗り換えが必要となります。乗り継ぎを含めた所要時間は、約20時間前後を目安にしてください。

航空会社 乗換地
ターキッシュエアラインズ イスタンブール
カタール航空 ドーハ
ブリティッシュエアウェイズ ロンドン
ルフトハンザドイツ航空 フランクフルト

アテネ発カイロ行き
平均飛行時間 2時間4分
アテネの歴史
現在のところ、アテネにおける最古の人類の痕跡は同市を象徴するアクロポリスの下部にあいた片岩地質の洞窟内から発見されたもので、時期は前6000年から前11000年と推定されている。

アテネでは少なくとも7000年間継続して定住が行われている。前1400年にはこの地の集落はミケーネ文明における中心的地域の1つとなっており、アクロポリスはミケーネ市にとっての主要な砦であった。この砦の遺構は特徴的なキュクロプス式の城壁に今でもうかがうことができる。

ミケーネやピュロスといったミケーネ文明の他の中心地と異なり、アテネが前1200年ごろ滅亡を被ったかどうかはわかっていない。

東地中海全域を襲ったこの危機は、ミケーネ文明に関してはドリス人の侵略にその咎が帰せられることが多いが、アテネ人はドリス的要素の混ざらない純粋なイオニア人であることにこだわりつづけた。いずれにせよアテネも他の多くの集落同様に、以後150年ほど経済的停滞に沈んでいる。

鉄器時代に入ると、ケラメイコスの墓地をはじめとして多人数を収める墓地が少なからず設けられており、前900年以降アテネがギリシアにおける交易と繁栄の先進的中心地の1つとなっていたことがわかる。

アテネの先進的地位は、ギリシア世界の中心に位置したこと、アクロポリスの砦を擁し防衛に優れたこと、海上交通の便が良いことから享受できたと考えられる。特に第3の点はテバイやスパルタといった内陸の競合相手に対し天与の利点となった。

前6世紀にはギリシア世界に広まった不穏な社会情勢からソロンの改革に至り、この改革は結果的に前508年のクレイステネスによる民主政の導入を招来した。

この時期以降アテネは大艦隊を保有する一大海軍力となり、ペルシアの支配に抗するイオニア諸都市を支援することとなる。

その後に勃発したペルシアとの戦争では、アテネはスパルタとともにギリシア諸都市の連合を率いて戦い、ついにはペルシアを撃退している(前490年のマラトンの戦い・前480年のサラミス海戦の勝利が決定的となった)。

とはいえ、最終的に勝利こそしたものの、レオニダス1世麾下のスパルタ兵が英雄的に敗北した際と、ボイオティアとアッティカがともにペルシアの手に落ちた際との都合2度、アテネはペルシアによる占領と略奪を受けることを余儀なくされている。
ペロポネソス戦争勃発直前のデロス同盟(前431年)。
ペルシア戦争後の数十年は、民主政アテネの黄金時代として知られる。前5世紀のこの時代、アテネは古代ギリシア世界の先頭を走り、さまざまな文化的達成は以後の西洋文明の礎となった。
アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスといった劇作家、歴史家のヘロドトスとトゥキディデス、医師ヒポクラテス、哲学者ソクラテスがこの時期のアテネで活躍している。

優れた指導者であったペリクレスは諸芸の振興と民主主義の庇護をこととしたが、この指導者のもとでアテネは野心的計画に乗り出し、パルテノン神殿をはじめとするアクロポリスの壮観と、デロス同盟を通じた帝国の樹立を見ることとなった。

デロス同盟はもともとはペルシアへの抵抗を継続するギリシアの諸都市が相互に結んだ同盟関係というべきものであったが、ほどなくアテネの帝国的野望のための手段となった。

このアテネの傲岸がもたらした緊張はペロポネソス戦争(前431年〜前404年)の開戦を招き、宿敵スパルタに敗北したアテネはギリシアにおける覇権を失った。

前4世紀半ばには北方のギリシャ系国家であるマケドニア王国がアテネ周辺へも影響力を及ぼしはじめ、前338年にはピリッポス2世率いるマケドニア軍がアテネとテバイを中核とする都市同盟軍をカイロネイアの戦いで打ち破っている。




