初日からアクシデント前の順調編
カスピ海
ユーラシア大陸の中央アジアと東ヨーロッパの境界にある塩湖である。

呼称
「カスピ」の名は古代に南西岸にいたカス族あるいはカスピ族に由来する。カスピ海に近い現在のイラン・ガズヴィーン州都ガズヴィーンは同じ語源であると言われる。


 

現代のペルシア語では一般に「ハザール海」と呼ばれるが、これは7世紀から10世紀にカスピ海からコーカサスや黒海にかけて栄えたハザール王国に由来する。

現代ペルシア語では、カスピ海南岸のイランの地名から「マーザンダラーン海」とも呼ばれる。また、トルコ語でも同様の名で「Hazar Denizi」と呼ばれる。

中国語では、現在に至るまで「裏海」(りかい)と呼ばれる。


 

この湖に面している国は5カ国、ロシア連邦(ダゲスタン共和国、カルムィク共和国、アストラハン州)、アゼルバイジャン共和国、イラン(マーザンダラーン州など)、トルクメニスタン、カザフスタンである。


国際法的な湖の境界については、5カ国が2018年8月12日に署名した協定で、完全に確定した。

 

 

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主な流入河川にはロシア平原を縦断し北西岸から流れ込むヴォルガ川、その名の通りウラル山脈に端を発し北岸へと流れ込むウラル川、西岸のアゼルバイジャンより流れ込むクラ川、西岸のダゲスタン共和国から流れ込むテレク川などがある。


 

流入河川は総計130本にも上るが、流れ出す河川は存在しない。これらの流入河川から流れ込む水量は年間300km3に及び、そのうち240km3はヴォルガ川から流入する水である。


 

この流入分のほとんどはカスピ海上での大気中への蒸発によって失われる。カスピ海への降雨の5倍の水量が、蒸発によって空気中へと放出される。


 

しかし、流出河川が存在しないこともあって、流入河川水域の降雨量の変動や集水域における灌漑面積の増大などによる流入水量の変動によって湖面は上下しやすく、過去何度も水面は上下を繰り返している。


 

アゾフ海とはヴォルガ川を介し、クマ=マヌィチ運河やヴォルガ・ドン運河によってつながっている。また、ヴォルガ川と流域の運河群によって、白海やバルト海とも水運はつながっている。


 

面積は日本の国土面積(377,835km2)よりわずかに狭い374,000 km2ある。水の量は78,200km3に上り、世界の全ての湖水の40%から44%を占める。湖全体の平均塩分濃度は1.2%と海水のほぼ1/3である。


 

カスピ海は北部、中部、南部に分かれ、性質が大きく異なる。北カスピ海は北西部に位置するヴォルガ川から流れ込む膨大な土砂により、広大な湿地帯であるヴォルガ川三角州(デルタ)や大陸棚が発達しており非常に浅い。

平均水深は5mから6mであり、最深部ですら10mは超えない。水量はカスピ海全体の水量の1%にしかならない。


 

浅い上にヴォルガ川などの多くの河川の流入によって塩分濃度が低く、さらに気候も最も寒いため、北カスピ海は冬季には70cmほどの厚さまで結氷する。

中カスピ海に入ると水深は急速に深くなり、平均水深は190m、最深部は790mとなる。中カスピ海は全水量のうち33%を占める。南カスピ海は最も深く、−980mに達する地点もある。南カスピ海の水量は、全水量の66%を占める。



 

ヴォルガ川三角州(デルタ)には無数の支流が流れており、人の手が入りづらく、この地域は1919年にアストラハン自然保護区域に指定され、野鳥の楽園となっている。

湖の北から東にかけては中央アジアの大草原(ステップ)が広がる。特に北部には、海面下に位置する広大なカスピ海沿岸低地が広がっている。


 

カスピ海沿岸低地は乾燥が激しく、特に北部のヴォルガ川とウラル川に挟まれた地域は、かなりの部分がルィン砂漠となっている。
 

 

飛行データー
LOCAL TIME AT DESTINATION(目的地の現地時間)
01:10

LOCAL TIME AT ORIGIN(出発地の現地時間)
07:10

OUTSIDE AIR TEMPERATURE(地上気温や上空での機外の温度)
-41℃
 

 

黒海
ヨーロッパとアジアの間にある内海で、大西洋の縁海(地中海)(海洋学) の一つである。マルマラ海を経てエーゲ海、地中海に繋がる。

歴史
南西にイスタンブールがあり、古くから東ローマ帝国、オスマン帝国の首都があったことから、黒海地域の歴史は複雑である。オスマン帝国時代には対ウクライナなどの黒海貿易もあった。

黒海が位置するのがアジアとヨーロッパの境界線上であるため、中東史、ヨーロッパ史、ロシア史のどの分野でも記述される機会が少なかったが、少しずつ黒海周辺を一つの地域として黒海歴史研究をする学者が出てきている。

古代
紀元前7世紀頃から、ボスポラス海峡を通ってギリシャ人が黒海沿岸各地に植民を始め、タナイスやパンティカパイオン、オルビアといった植民市が各地に建設されていった。

これらの植民市は北の草原地帯に住むスキタイ人やサルマティア人らの遊牧国家から彼らの支配地の黒海沿岸黒土(チェルノーゼム)地帯の農耕民から徴税した穀物や戦争捕虜の奴隷を購入し、ぶどう酒や武器などのギリシャの産物とを取引して力を付けていった。


 

また、これらの植民諸都市、とくにタナイスは東西交易路の一つ、ステップ・ルート(草原の道)の西端にも当たっており、黒海はこの頃にはすでに東西交易の重要なルートとなっていた。

スキタイ人の手により東方の産物が植民都市に持ち込まれ、ギリシャ人によって地中海世界へと運ばれていった。この交易の様子はヘロドトスの「歴史」にも描かれている。

そして紀元前5世紀にはこれらの植民市を統合してボスポロス王国が成立し、穀物などの貿易を基盤にして国力をつけていった。ボスポロス王国はのちにローマ帝国の従属王国となりつつ4世紀頃まで存続したが、フン族によってほぼ滅ぼされた。紀元前1世紀にはいると、ポントス王国など黒海南岸の諸国はすべてローマ帝国の領域となり、ローマの勢力圏となった。