松の傷
いろいろな松
園内には約8200本の樹木があり、なかでも重要な「特別名木」が19本、「名木」は54本あります。
特別名木の唐崎松や玩月松(がんげつまつ)、根上松(ねあがりまつ)をはじめ、目を引く松が多いのも特徴。
松は主要なものだけでも約200本あり、樹種はクロマツとアカマツが多い。
松の枝ぶりや種類の違いにも注目しましょう。

この「松の傷」は、お茶などが飲める休憩どころ「時雨亭」と、たくさんの梅の木がならんでいる「梅園」の間くらいにあります。
「松の傷」は、松脂を採取したときの傷跡のことです。
松根油は戦争末期、航空燃料不足を補うため、松の幹を切り込んで松ヤニを採取、精製した。各地に精製場が作られたが、技術、労力的に頓挫したとされる。
松根油(しょうこんゆ)は、マツの伐根(切り株)を乾溜することで得られる油状液体である。広義にはテレビン油の一種であるため、松根テレビン油と呼ばれることもある。
太平洋戦争中の日本では航空用ガソリン(航空揮発油)の代替物としての利用が試みられたが、非常に労力が掛かり収率も悪いため実用化には至らなかった。

樹脂(松ヤニ)の抽出物である一般のテレピン油と混同されるが、松根油は一般のテレピン油とは材料及び製法が異なる。
現代の一般的なテレピン油は松ヤニを水蒸気蒸留して得るが、松根油は松ヤニを経由せず松の伐根を直接乾溜して得るものである。
しかし戦時中には燃料や機械油不足の対策として松ヤニから燃料や機械油を精製する計画も同時並行で行われたことから、しばしば混同されている。
戦前は専門の松根油製造業者も存在し、塗料原料や選鉱剤などに利用されていた。昭和10年頃の生産量は6,000キロリットルほどであった。
時は、1945年6月、第二次世界大戦では、ドイツ、イタリア、日本などの、いわゆる枢軸国(すうじくこく)の、負けが決まった状態、
1945年4月には、イタリアの指導者、ムッソリーニは、射殺され、その2日後に、ドイツの指導者だった、ヒトラーは自殺し、5月には、ドイツ、イタリアが降伏し、唯一、日本だけが、負けを認めず、抵抗していた状態です。
1944年ラジオ塔から1945年1月にかけて、日本が侵攻していた、アメリカ領のグアム、サイパン、イギリス支配下のマレー半島やビルマ、フィリピンのルソン島などを、失います。

1945年3月には、
日本の小笠原諸島の硫黄島(いおうじま)にアメリカ軍が上陸し、硫黄島が没落。アメリカ軍による空襲が本格化し、東京大空襲で、10万人が亡くなり、東京、大阪、名古屋、横浜、神戸などの大都市が、空襲をうけます。
1945年4月には、
沖縄で、アメリカ軍との地上戦がはじまり、6月には没落。
、「松の木」からの油採取でした。
日本は、今もむかしも、資源に乏しい国ですから、その輸入のルートを、アメリカ、イギリスなどの、いわゆる連合国軍に抑えられ、破壊されてしまいました。

銅像の台座石
銅像の台座石は、兼六園にある日本武尊銅像(ヤマトタケル像)を支えていた石の台(台座)です。
ヤマトタケル像が建てられたのは、1880年(明治13年)で、1991年(平成3年)に像の修復をした際、台座石のひび割れがひどく、新しい台座石に取り替えられました。

この銅像の台座石は、1880年から1991年の111年ものあいだ使われていたものです。
銅像の台座石は、虹橋や雁行橋と同じく、戸室石(とむろいし)で作られています。

兼六園内(金澤神社含む)には大小40箇所の橋があります。
その中で橋名がついているのが12箇所(2018年12月現在)あります。
兼六園は高台にありながら、辰巳用水を引き込み、曲水や池、滝に注がれ、意匠を凝らした橋が架かり、周辺の風景ともよく馴染み四季を通して楽しませてくれます。
虹橋
虹橋が架けられた時期は分りませんが、天保末から弘化年間(1844~1848)に描かれたと推定される「竹沢并蓮池御庭御囲之図」には、水樋上門の竹沢御庭側に、それらしい橋が架かっています。
また、竹沢御殿が、ほぼ解体されてはいるが蓮池庭と竹沢御庭の境に塀が残る安政3年(1856)に描かれた「竹沢御屋敷総絵図」にも虹橋らしき橋が描かれています。
さらに文久年間(1861~1863)に描かれたという、13代藩主前田斉泰公が造営した兼六園の様子を伝える“兼六園、法眼佐々木泉玄筆”といわれる「兼六園絵巻」には徽軫燈籠の後に虹橋が描かれています。

月見橋
十三代藩主斉泰公が、眺望台と霞ヶ池の間の曲水に架けた橋で、別名玩月橋。文久3年(1863)に描かれたという絵図に載っています。
しかし、その絵図では橋の様子はよく分りませんが、現在、踏み板に丸太を並べ土を敷いた土橋風の橋ですので、多分、それに近いものが架かっていたものと推測できます。
ラジオ塔
兼六園内で、一見すると灯籠と間違えてしまいそうなのが、昭和8年5月15日建立のラジオ塔。
正式名称は「公衆用聴取施設」で、NHKが昭和7年〜昭和9年、全国41の公園に、ラジオ放送の普及を目的に設置した放送塔のひとつ。

ラジオ塔(当時の呼称はラヂオ塔)は、NHK大阪中央放送局が昭和5年6月15日、大阪市の天王寺公園旧音楽堂跡に、最初のラジオ塔を設置したのが始まり(NHKのラジオ放送の全国展開は昭和4年2月から)。

新潟県では白山公園(新潟市中央区)に昭和7年に設置(現存)。
北陸では昭和8年に兼六園のほか、佐佳枝廼社(福井市)に設置されていますが、現存していません。
石川県内では、昭和15年に卯辰山公園(金沢市)、輪島町役場前(輪島市)、芦城公園(小松市)、山中温泉総湯前(加賀市)に設置され、芦城公園のラジオ塔が現存しています。
石川県でのラジオ放送は、昭和5年4月15日、NHK金沢放送局が開局、当初は富山県もカバーしていました。

ただし、昭和8年当時は、NHK名古屋放送局のラジオ放送を流していました。
全国的には石灯籠風の石造建築が多いのですが、兼六園は少し特殊で、景観に配慮するためあえて上部を木造にしています。
戦前は、このラジオ塔の周囲で市民が集い、太平洋戦争時には、このラジオ塔からの放送で国民保健体操(戦前のラジオ体操、昭和7年に全国ラジオ体操の会結成)を行なっていたのだとか。

兼六園のラジオ塔ですが、目下、配布の園内図などには記載されておらず、自分で探すしか到達手段がありません。
霞ヶ池・内橋亭から梅林方面に向かう途中にあるので、ぜひ探勝を。






