冷やし釜揚げうどん
釜揚げうどんは、茹でたうどんを、水で締めずにそのまま食べる料理。
対して、冷やし釜揚げうどんは、水締めして氷の上に盛り付ける。



 

通常の水で締めたうどんのようなコシやエッジがなく、表面にはぬめりがある。

うどん内部の熱によってデンプンのアルファ化が進行するため、放置すれば時間の経過とともに食感が変化していく。



 

一般のうどん店では、うどんを茹で汁と一緒に桶に盛り、ざるうどんのように猪口に入れたつゆと共に供される。


 

讃岐うどんの製麺所や家庭などでは、鍋から直接丼鉢に手繰り寄せ、その上からめんつゆや生醤油をかけて食べることもある(釜ぶっかけ、釜醤油)。

また、生卵を加えたものは釜玉うどんと呼ばれる。



 

↑ カボス ↓

 

湯だめうどん
湯だめうどんは、茹でた後に水で締め、ぬめり取りを行ったうどんを再度湯通しし、桶に張ったお湯に入れた状態で供される。

 

外見上は釜揚げうどんと同じだが、水で締める工程が入るため食感は通常の温うどんと同じである。麺の状態は茹で置き時間によって大きく異なる。

 

 

歴史
発祥には諸説あり定かではないが、時代順に並べると以下のようになる。

遣唐使の一行が索麺の製法を、遣唐使船の寄港地であった肥前国 松浦郡 上五島の人々に真っ先に伝えた説。

中国・浙江省岩坦地区に現存する「索麺」の製造方法が、五島うどんの製造方法に酷似しており、素麺発祥と謳っている三輪素麺に素麺を供給していた島原素麺などの製麺技術が古代から同地域に発達している事など地理的に考えても有力な説である。


 

奈良時代に遣唐使によって唐から渡来した小麦粉の餡入りの団子菓子「混飩(コントン)」に起源を求める説。

 

青木正児の「饂飩の歴史」によれば、ワンタンに相当する中国語は「餛飩(コントン;中国語の発音ではhún tún)」と書き、またこれを「餫飩(ウントン、コントン)」とも書き、これが同じ読み方の「温飩(ウントン;中国の発音ではwēn tún)」という表記になり、これが「饂飩(ウドン;中国語の発音ではyún tún)」となったとする説。



平安時代に遣唐使として唐に渡った空海が饂飩を四国に伝えて讃岐うどんが誕生したという伝説。

平安時代の989年、一条天皇が春日大社へ詣でた際に「餺飥(現代ではほうとうと読むがはくたくと読む。神饌として奉納された)」を食べたという「小右記」の記述から、発祥は奈良とする説。


また、それ以前の奈良時代までは索餅・はくたくのいずれも醤で調味しながら野菜とともに煮て現代のほうとうと同様に食べられていた。

仁治2年(1241年)に宋から帰国した円爾(聖一国師)が製粉の技術を持ち帰り、饂飩、蕎麦、饅頭などの粉物食文化を広めたとする説。



承天寺(福岡市、円爾建立)境内には「饂飩蕎麦発祥之地」と記された石碑が建っている。また製粉機の詳細を記した古文書「水磨の図」が残されている。

中国大陸から渡来した切り麦が日本で独自に進化したものであるという説。



奥村彪生によれば、麺を加熱して付け汁で食するものは中国大陸にはなく、日本の平安時代の文献にあるコントンは肉の餡を小麦の皮で包んだもので、うどんとは別物であり、うどんを表現する表記の文献初出は南北朝時代の「ウトム」であるとする説。

南北朝時代末期の「庭訓往来」や「節用集」などに「饂飩」「うとん」の語が現れる。江戸時代は「うどん」と「うんどん」の語が並存し、浮世絵に描かれた看板などに「うんとん」と書いてあることがよくあり、明治初期の辞書「言海」には「うどんはうんどんの略」と記されている。




室町時代に記された「尺素往来に「索麺は熱蒸し、截麦は冷濯い」という記述があり、截麦(切麦)が前身と考える説もあるが、その太さがより細く、冷やして食されていたことから、冷麦の原型とされている。切麦を温かくして食べる「温麦」と冷やして食べる「冷麦」は総じてうどんと呼ばれた。

いずれにせよ、江戸時代前期には現代の形のものが、全国的に普及して広く食べられるようになっていた。


 

抹茶
緑茶の葉を細かく砕いた粉末である。日本では茶道で飲用として用いられるほか、和菓子、洋菓子、料理の素材として広く用いられる。

日本の食品表示で「抹茶」とされるのは、日本茶業中央会による「覆い下で栽培生葉を揉まないで乾燥した碾茶を茶臼で挽いて微粉状に製造したもの」、および「『茶臼で挽いて』という表現は粉砕の代表例を示したもので、他の方法で微粉末にしても「抹茶」と言える」との補足説明に当てはまるもの。



 

『碾茶』と『抹茶』の流通量を比較すると、世間で流通している抹茶の3分の2は本来の意味の抹茶ではないと見られている。

工業的に粉砕機で破砕したものも抹茶と表示されるが、「加工用抹茶」「工業用抹茶」「食品用抹茶」などとして流通する粉末茶や、煎茶を製造する際に生じる微細な「出物」である粉茶はこの定義に含まれない。



 

粉末としての抹茶
チャノキの葉を蒸してから乾燥させた碾茶を茶臼で挽いたもの。飲用として濃茶や薄茶に用いるほか、日本では定番となっている抹茶味のアイスクリームのように、爽やかな苦味は和菓子や洋菓子の風味付けにも好まれる。

家庭用に流通しているプラスチックのフィルム袋や金属製などの密閉容器に入った製品は、変質を避けるために開封後に冷暗所で保存する必要がある。


 

わらび餅
わらび粉を原料とする柔らかく口どけの良い和菓子。 きな粉や抹茶の粉、黒蜜をかけて食べるのが一般的となっている。



 

歴史と産地
醍醐天皇が好物としており太夫の位を授けたという言い伝えがあり、そこからわらび餅の異名を岡大夫とも言う。そのいわれが寛永19年(1642年)に書写された大蔵虎明能狂言集(大蔵虎明本)の「岡太夫」に古い言い伝えとして書かれている。


 

また同時に凶作に見舞われた農家の非常食でもあったという言い伝えもある。


 

東海道の日坂宿(現在の静岡県掛川市日坂)の名物としても知られており、谷宗牧の東国紀行(天文13-14年、1544年-1545年)には、「年たけて又くふへしと思ひきや蕨もちゐも命成けり」と、かつて食べたことのあるわらび餅を年をとってから再度食べたことについての歌が詠まれている。


 

ただし掛川周辺は鎌倉時代から歌に歌われるほどの葛布の名産地であり、林道春(林羅山)の「丙辰紀行」(元和2年、1616年)にはこの日坂のわらび餅について、「或は葛の粉をまぜて蒸餅とし。豆の粉に塩を加えて旅人にすすむ。


 

人その蕨餅なりとしりて。其葛餅といふことをしらず。」とあり、天明6年()(1786年)頃の「東街便覧図略」にも、「蕨餅とハ言へと実は掛川の葛の粉を以って作れる也」ともある。


 

奈良県はわらび粉の名産地であり、奈良や近くの京都ではわらび餅の名店が数多く見られる。京都では餡入りの蕨餅が古くから親しまれてきた。


 

また夏のイメージが強いが和菓子店で売られている本蕨を使った餡入りタイプのわらび餅は保存に向かないため、夏の間は販売されていないことが多い。



移動販売
一部地域において夏季限定や不定期にわらび餅の移動販売を行う業者がおり、夏の風物詩となっている。


 

静岡県浜松市ではリアカーを引いてわらび餅を売り歩く移動販売屋がいる。早朝にわらび餅の仕込みを行い、昼前から店や常連客の家を巡りながら売り歩く。販売時期は5月から9月上旬までである。同業者は時代の流行により近年では減少傾向にある。

愛知県名古屋市では『わらび~もち、わらび~もち、冷たくて~おいしいよ~』、大阪府では『わらび~もち、かきごおり~』などの歌をスピーカーで鳴らしながら、わらび餅の移動販売を行う車がある。


 

東京都墨田区にあるきびだんご専門店の『吉備子屋』は、谷根千地域において2週に1度ほどの間隔で移動販売を行う。

天候に左右されるため定期的ではないが、リアカーを引き売り歩く様式で、串わらび餅ときびだんごを客寄せの太鼓を叩きながら販売している。