奇祭湯かけ祭り
湯かけ橋の欄干に奇祭湯かけ祭りの図柄が。

王湯へ行く湯かけ橋は車両の通行は不可で、湯かけ橋の下を通る町道の専用路を利用すれば車で行けますが、一般車の利用は不可。
川原湯温泉の町道
この町道は当初は「補強土壁工法」で建設される予定でしたが、ボーリングを実施したところ、岩盤の位置が想定より深かったため、「鋼製桟道橋」による建設に変更された経緯があります。

↑ 町道を左折で王湯へ ↓
王湯へ行く湯かけ橋は車両の通行は不可で、湯かけ橋の下を通る町道の専用路を利用すれば車で行けますが、一般車の利用は不可。

川原湯温泉の町道
この町道は当初は「補強土壁工法」で建設される予定でしたが、ボーリングを実施したところ、岩盤の位置が想定より深かったため、「鋼製桟道橋」による建設に変更された経緯があります。

↑ 町道の王湯専用路 ↓
町道が完成し、JR川原湯温泉駅と川原湯温泉の共同湯・王湯会館旅館が繋がることになりました。
2016年の八ッ場ダムの基本計画変更に関する国交省の資料によれば、ダム事業費のうち約8億円の増額はこの工法変更によるものと説明されています。
八ッ場ダム事業に伴い、代替地となった、国道145号が通る大字川原畑と八ッ場あがつま湖の対岸の大字川原湯を八ッ場大橋で結び、川原湯峠付近を大柏木川原湯トンネルで貫き南側の国道406号まで至る路線である。
大柏木川原湯トンネルや大柏木地区の道路は、八ッ場ダム建設のための骨材を運搬する工事用道路として先行建設されており、トンネル内は運搬用のベルトコンベアが設置されていた。
ダム工事終了後にトンネルの一般供用のための整備が実施され、この完成により、群馬県が八ッ場ダム事業で進めてきた道路建設や砂防施設整備などが全て完了した。
起点の川原畑から川原湯までの1.1 km区間を群馬県が、トンネル区間の3.25 kmは国土交通省、などと通常の県単独事業と比べ多額な予算を要するため、4工区に分割して工事が行われた。
国道406号のバイパス機能を持つとともに、草津温泉を含む吾妻地域方面と高崎都市圏・南関東方面を短絡する幹線道路となっている。

↑ 王湯から見たやまきぼし ↓
お福&まるきやカフェ
2013年7月オープン
移転前にTV番組の企画で嵐の二宮君と大野君が〝名勝もなか〟づくりのお手伝いに来たそうで写真が飾ってあります。
↑ 代替地のお福&まるきやカフェ 移転前のまるきや ↓
丸木屋旅館のご子息(長野原中学校の教師)が始めた土産店(川原湯温泉駅と温泉街の中間地点)。
其の弟さんは、丸木屋旅館内で「温泉饅頭」の製造販売をしていました。

その後、川原湯温泉駅前に「温泉饅頭」の製造販売店を立ち上げ独立しました。
↑ 移転前のかんばんも代替地(へ お福&まるきやカフェ ↓

川原湯温湯かけ祭り
大寒の20日未明、群馬県長野原町の川原湯温泉で伝統の奇祭「湯かけ祭り」が行われた。
氷点下3度の寒さの中、紅白に分かれたふんどし姿の男性約60人が「お祝いだ」と叫びながら共同浴場の湯をおけで豪快にかけ合い、地域の繁栄や無病息災を祈る。

↑ 2020東京五輪聖火リレーコースが湯かけ広場からスタート ↓
祭りは約400年前、温泉がかれた際、住民が祈願して再び湧き出したことを喜び、湯をかけ合ったのが始まりとされる。掛け声は「お湯湧いた」から転じた。

同温泉は2014年度に本体工事が始まる予定の八ッ場(やんば)ダムの水没予定地にあり、祭りが現在の温泉街で開かれるのは最後。

↑ 湯かけ広場からみた「やまきぼし」と湯かけ広場 ↓
供物分配
湯かけ祭りでは「分湯の儀」が終了すると「湯かけ合戦」前に祭壇に奉納された供物の一部を見物人へ分配される。

↑ 湯かけ祭り2014年1月20日早朝撮影 ↓
王湯正面の見物特等席
左の建物が丸木屋旅館で一階に「温泉饅頭」製造直売所が有った。
餅まき
上棟式などの神事に際して集まった人々へ餅をまく行事である。正式には、散餅の儀、散餅銭の儀という。
餅まきの一般的なものは、上棟式(建前)を終えた後、建設中の住宅の屋根などから餅をまく形式である。餅以外に小銭をまくことも多く、この場合には「散餅銭の儀」と呼ばれる。
供物のもつ意味
供物に関する解釈はさまざまである。ビアッティは供儀の象徴的な側面こそが本質であるとし、人間と超自然的な存在との間にも互酬的な面がある。
つまり人間と霊との関係には常に何らかの交換が行われている面があるので、それがしばしば霊に対する贈呈や譲渡となっている(物質的なもの、および非物質的なことがらを含む)、とした。

川原湯温湯かけ祭り
大寒の20日早朝5時、湯かけ太鼓の演奏で川原湯温泉で伝統の奇祭「湯かけ祭り」が行われた。
氷点下3度の寒さの中、紅白に分かれたふんどし姿の男性約60人が「お祝いだ」と叫びながら共同浴場の湯をおけで豪快にかけ合い、地域の繁栄や無病息災を祈る。
↑巫女の先導で、総大将(紫の褌) 赤組大将(赤の褌) 白組大将(白の褌) が登場↓
祭りは約400年前、温泉がかれた際、住民が祈願して再び湧き出したことを喜び、湯をかけ合ったのが始まりとされる。掛け声は「お湯湧いた」から転じた。
湯かけ祭りは2014年度に本体工事が始まる予定の八ッ場(やんば)ダムの水没予定地にあり、祭りが現在の温泉街で開かれるのは此れが最後である。
↑ 巫女による分湯の儀 玉串奉奠 ↓
徹底的な厄払い
日の出前の午前5時、太鼓とともに始まった神事に続き、小学2年から60代までの60人が鉢巻、下帯、足袋、真新しい手おけを手に登場。紅白2組に分かれて気勢をあげ「お祝いだ」と湯のかけ合いが始る。
約400年前、止まった温泉の湯が祈祷により再び湧き出し「お湯湧いた」「お祝いだ」と祝いの湯をかけ合ったのが由来。
現代も同じかけあいが続き、辺りは湯気と熱気であふれた。

口伝口承の祭には古い祭が多い。川原湯温泉の湯かけ祭も言い伝えだけでやってきた祭である。
祭はやることに意味があり、なぜどうしては必要でない。

ただ、湯かけ祭は川原湯温泉の歴史そのものであり、断片的に考えていたことをつなぎ合わせてみるのもおもしろいかもしれない。
紅白の久寿玉には鶏が入っている 此れに湯を掛けてどちらが早く取り出せるかを競う
川原湯温泉は、建久3年、源頼朝の浅間狩りの時に発見されたと伝えられています。
毎年正月二十日に行われる湯かけ祭は、今から四百年ほど前のこと、温泉が突然止まり困り果てた村人たちが、ニワトリを生け贄にして祈ったところ、再び豊かな温泉がわき出したので「お湯わいた」「お祝いだ」とお湯をかけあったのが始まりだといわれています。
昔は、誰彼かまわずお湯をかけ、湯かけ祭に出ない家にも片端から、お湯をかけました。
見物人や通行人は、びしょ濡れになり、玄関は凍り付いて開かなくなりました。
お湯をかけられると厄落としになると喜んだ人もいましたが、喧嘩になったりトラブルになったこともしばしばありました。
↑ 鶏の奉納 妻も結構お湯を浴びました ↓
明治のはじめに「こんな野蛮な祭はやめよう」と中止したところ、疫病が流行り亡くなる人が多数出ました。
湯かけ祭をやめたせいだということで、その後は途絶えることなく続いています。
お湯でびしょ濡れになった道路も、直ぐに凍ってしまいます。


























