川原湯温泉
「やまきぼし」 素泊まり施設として代替地で再開
大正時代から続く温泉旅館「山木星(やまきぼし)」が2020年8月29日、代替地で宿泊業を約5年ぶりに再開した。
社長の樋田省三氏の長男、恒祐さんが後継ぎとして戻り、素泊まりなど新たな需要に対応できる宿として再出発した。

↑ 予約確定 やまきぼしレストラン棟(2018年10月9日) ↓
ダム建設時の移転問題で揺れた温泉街は宿泊施設が減り、子育て世代が町外に流出したが、恒祐さんは「新たな川原湯温泉をつくっていきたい」と意気込む。
代替地に移った「やまきぼし」は2年前から、昼食を中心とする食事処としてレストラン棟を建設し営業していた。
↑ 隣接して宿泊棟を増築 ↓
6代目として恒祐さんが働くことが決まり、新たに宿泊棟をストラン棟に隣接して建設して営業を始める。
恒祐さんは水没前の長野原一小に入学し、途中で校舎が高台に移転。入学時に10人ほどいた同級生は卒業時には半数に減っていた。
「町外に引っ越す子を目の当たりにした。この先、町はどうなるんだろう」と、子どもながらに心配した。

それでも懸命に働く父親の姿を見て育ち、当初は跡継ぎは嫌だと思っていたが、中学卒業の頃には継ごうと考えるようになった。
「ダムができて景色が変わったが、帰りを待ってくれた地元の人がいる。川原湯が好きだという思いが強い」と家業に入った。

旧中之条高から進学した埼玉県内の大学を卒業した2017年3月、代替地の工事はまだ終わっていなかった。
みなかみ町の旅館で約3年間働きながら、食材へのこだわりやサービスを学んだ。
「昔の旅館っぽい『やまきぼし』とは違う、新しいスタイルの『やまきぼし』としてスタートする」と恒祐さん。

↑ レストラン棟と宿泊棟の間に渡り廊下を ↓
↑ 全ての出入りはカードキーとした ↓
部屋数は従来から半減の7部屋(1部屋あたり1~6人)にし、両親との3人でも経営できる規模にした。

↑ 宿泊棟玄関と下足箱 ↓

↑下足箱 左が浴室棟 右側と二階が客室↓

宴会や食事付きの従来型営業ではなく、複数で泊まれば1人当たりの支払いが安くなる素泊まりの部屋代()(中心価格は1万4千円)での提供を基本とする。
希望により朝夕の食餌も用意できるが、近くで開業した「川原湯温泉あそびの基地NOA(ノア)」でバーベキューをしたり、外食したりと宿泊客が自由に楽しめる周遊を促す。

恒祐さんは「ダム周辺の景観やアウトドアの充実というプラスのイメージとともに、川原湯温泉の魅力を発信したい」と夢を描く
↑ 客室・真珠星(Spica) ↓
スピカ (Spica, α Virginis: α Vir) はおとめ座α星(恒星)とも呼ばれる、おとめ座で最も明るい星(恒星)である。21ある1等星(全天21の一等星)の1つ。春の夜に青白く輝く。
名称
固有名のスピカは、古代ローマ時代に付けられた名前で、もともとはギリシャ語名で穀物の「穂先」を意味する Σταχυς に由来する。そのため「麦穂星」と訳した例もある。
原義は「尖ったもの」の意で、英語のスパイク(Spike)と同根。英語読みはスパイカに近い。
2016年6月30日、国際天文学連合の恒星の固有名に関するワーキンググループは、Spicaをおとめ座α星Aaの固有名として正式に承認した。
別名のアジメク(Azimech) は、アラビア語のal-simākから来ており、これは「守られていないsimāk」を意味するが、simāk が何かは不明である。
なお、Azimechもしくは al-simāk の意味が「守られていない」だとする文献もあるが、「守られていない」を意味するのは al-ʼaʽzal の方である。
中国では「角」と呼ばれている。これは青龍のツノであり、付近の領域は二十八宿の起点となる角宿と呼ばれる。
「真珠星」について
元々スピカには広く知られた和名はなかった。野尻抱影は、40年以上この星の和名を探したものの、雑誌「民間伝承」に宮本常一が福井県三方郡美浜町日向で発見した星の名前として「シンジボシ(六月の八時頃上る。
白色で小さい)」と報告したものを見つけただけに留まった。
野尻はこの星をスピカと推定し、その語源を「真珠」と類推して「真珠星」という名前を考案、その後太平洋戦争末期に海軍航空隊から常用恒星の日本語の名前を付けるように依頼された際に「真珠星」の名をスピカに充てた。
戦後も野尻がこの呼び名を使い続けたことにより、「日本では「真珠星」と呼ばれる」という認識が広まった。
↑ 客室から浴室棟へ ↓
省三氏は「創業から100年以上続く旅館。継いでくれるのはやっぱりうれしい」と目を細めた。
↑ 浴室棟 川原湯温泉あそびの基地NOA(ノア) ↓
省三氏は「創業から100年以上続く旅館。継いでくれるのはやっぱりうれしい」と目を細めた。省三氏は「川原湯温泉あそびの基地NOA(ノア)」の社長でもあります。
川原湯地区の宿泊施設は移転前に約20軒あった。代替地で再開するのは「やまきぼし」が6軒目となる。
↑ 掃除ロボ 女湯おり姫 ↓
おり姫
牛郎織女(ぎゅうろうしょくじょ)は、中国の神話伝説であり、漢族の民話の一つとされている。
牽牛織女の伝説は後漢以降の文献に見える。「淮南子」俶真訓に「織女」の名が見え、班固「西都賦」には「左牽牛而右織女、似雲漢之無涯」という。
唐末の韓鄂「歳華紀麗」に引く後漢末の応劭「風俗通」逸文には「織女は七夕の日にカササギを橋として河を渡らなければならない」といっている。
天の川の東岸に暮らした織女は、人と神の恋情を禁じた天の女帝・王母娘娘(おうぼにゃんにゃん)の外孫女。朝から晩まで「天梭」を使い、「天衣」と呼ばれた雲錦を織っていた。
ある日、姉妹たち(七仙女と同一視された)と共に人間界の河(碧蓮池)の辺に降り来たりて水浴をした。
人間界の青年である牽牛郎が飼い牛(金牛星の化身)の助言によって、河の辺で水浴びをしている天女の紫色の羽衣(あるいは桃色の羽衣)を盗んだ(一説には織女を見かけて一目惚れした牽牛郎は、彼女の羽衣を盗んで隠された)。
羽衣を失った織女が天界へ帰れないので地上に残って、最終的には牽牛郎の求婚を受け入れ、一人の男の子と一人の女の子を生んで、男が耕し、女が機織りをする幸福な生活を送っていた。
しかし、幸福な生活は長く続かず、天上から消え失せた織女を探していた王母娘娘は、織女と人間の男の結婚を知って怒り、「天兵」(天にある軍隊)を遣わして、天界の戒律に違反した織女を捕らえて天に連れ帰る。
牽牛郎が天に昇る道もなく、彼の飼い牛より「私が死んだ後、私の皮で靴を作って、その靴を履けば天界に上ることができる」だと言われている。
その後、飼い牛が死んだ。牽牛郎は飼い牛の言うとおりにして、牛の皮で作った靴を履き、子供たちを連れて天界に上り織女を探している。
これに怒った王母娘娘は、牽牛郎が自らの外孫婿であることを認めなかった。容姿を隠した七人の天女のうちで織女を選んで会うことを許した条件を出した。牽牛郎が王母娘娘からの非難に困らせた。
しかし子供たちは母親を認めた。王母娘娘は、織女を再び人間界に戻すことに反対し、織女を天牢に閉じ込めるよう部下に命じた。
織女を追いかけていた牽牛郎が、織女のところに到着しようとした際、残忍な王母娘娘は突然頭から金簪を抜いて一振りすると、天の川で輝く大波を引き起こし、牽牛郎と織女は両岸に分け隔てられている。
のちに王母娘娘によって毎年七月七日だけカササギが橋を架けて、牽牛郎に橋を渡って織女に会うことが許されていた。
それは、古代封建制における恋愛と結婚の不自由を反映している。
水没予定地の温泉街にあったやまきぼし旅館は、当主で現・川原湯温泉協会長の樋田省三さんがつくった露天風呂が嵐山光三郎氏によって「崖湯」と名づけられ、広々とした和室から崖沿いの自然を眺めることができる老舗旅館でした。大女将の手作りの料理も人気でした。
息子さんが引き継ぐ代替地の宿は、かつての旅館とは違う素泊まりスタイルになるとのことです。出典:「 八ッ場あしたの会」は、2006年10月、八ッ場ダムを考える会会員有志らによる東京でのコンサート「加藤登紀子と仲間たちが唄う 八ッ場いのちの輝き」を出発点として、2007年1月発足しました。

























