金沢城公園整備(河北門)工事
金沢城の「歴史的文化遺産の保護と新たな文化資産の創造」を図るため、調査研究の進展と蓄積を計りながら、金沢城全体の活用方向も踏まえた上で、現在ある遺産を良好に「保存」「修築」するとともに、一部「復元」を含めた総合的な取り組みを進めた。

↑ 河北門 ↓
事業経緯
平成17年
金沢城公園河北門等復元基礎調査業務
今回、三御門の一つであり、金沢城の正門にあたる河北門を整備するなかで、復元にあたり、埋蔵文化財、古絵図や古写真等の調査・検証と学識者の意見を踏まえて、本物志向、真正性を追求した、史実性の高い整備を実施。

平成18年
金沢城公園整備(河北門)工事(簡)基本・実施設計委託業務
↑ 鶴の丸 ↓
平成19年
埋蔵文化財調査(平成19年4月~平成20年3月)
建設工事(平成19年9月~平成22年3月)
↑ 修復後の河北門 ↓
建設工事(平成19年9月~平成22年3月)
平成22年4月24日
完成式

↑ 脇柱の礎石 ↓
礎石(そせき)
建造物の基礎にあって柱などを支える石。礎石を用いた建物を礎石建物といい、掘立柱建物や土台建物と区別される。
礎石を用いた礎石建物は古代中国や朝鮮半島にみられ、日本には仏教とともに伝来したとされている。
礎石建物は古代城柵遺跡・国府跡・寺院跡、中世寺院跡に広くみられる。
現存する世界最古の木造建築である法隆寺金堂にも礎石が用いられている。
法隆寺は再建論争があったが、現存する礎石は「若草伽藍」の礎石が使われているという。
西洋建築の普及により基礎に礎石を用いた建物は次第に少なくなった。
定礎(ていそ)
本来は礎石建物の基礎となる礎石を定めることをいった。一方、ヨーロッパでは古代ギリシャや古代ローマの時代から建物の基準となる石に対して着工時に印をして建物の完成や存続を祈ることが行われていた。

日本では西洋建築の普及により基礎に礎石を用いた建物が少なくなる一方[1]、建物の建設時に定礎式が行われるようになった。
基礎工事等は最初に行われるため定礎式は建物の仕上工事の完了時や完成時に行われるようになっている。
石川紀行 金沢城・河北門
河北門は高麗門である「一の門」、櫓門である「ニの門」、「枡形土堀」及び続櫓の機能を持つ。 「ニラミ櫓台」により防御機能を持った構成となっています。
「河北門」は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。
「石川門(重要文化財)」と「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれていますが、金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)の後、安永元年(1772年)に再建されました。
再建された河北門は、明治15年頃に無くなるまで金沢城の実質的な正門としての役割を果たしていました。
約130年ぶりに甦った河北門は平成19年11月に着工し、平成22年4月まで約2年半の歳月をかけて完成しました。
↑ 唐破風出窓 ↓
復元にあたっては、現存する絵図、古写真、文献及び埋蔵文化財の調査結果を踏まえて、史実を尊重し、日本古来の伝統工法によって、戸室石による石垣積み、漆喰仕上による白壁、軸組をはじめとする木工事及び屋根鉛瓦葺きなど、構造・仕上部材の細部にわたり石川の匠の技が発揮されています。
石川門、河北門、橋爪門は金沢城を守った三御門
加賀藩主・前田家の居城であった金沢城公園は、2001年3月に「菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓」が復元され、観光地としての第一歩を踏み出しました。
↑ 鉄砲狭間 ↓
金沢城は、1871年(明治4年)から終戦までは帝国陸軍の管轄となり、終戦後は金沢大学のキャンパスが置かれたことから、21世紀になって、ようやく金沢の一般市民も城内を見学できるようになったわけです。
三御門は「二の丸御殿」の防御施設
加賀藩の初代藩主・前田利家は、敷地の中で最も高い位置に五層の大きな天守閣を建てたと伝えられています。しかし、残念ながら江戸時代が始まる前年の1602年(慶長7年)に落雷によって焼失しました。
その後、本丸には天守閣ではなく御殿が建てられましたが、1620年(元和6年)と1631年(寛永8年)の2度にわたって火災で焼失した後は、二の丸に藩主の住まいが造営されました。それが二の丸御殿です。
金沢城の三御門は、藩主が暮らす二の丸御殿を防御するために設けられた門です。
まず「二の丸」と「三の丸」の間に橋爪門を設けました。
そして、新丸から三の丸に入るところに河北門を、兼六園から三の丸に入るところに石川門を置き、万全の警備体制を敷きました。
















