松山楼かすていら(埼玉県坂戸市)
過日、坂戸市在住の友人が、両国にある相撲部屋での「ちゃんこ鍋」を食べる機会があり上京。その際に手土産として「かすていら」を持参して呉れました。
看板商品は、『和三盆糖(徳島県産最高級サトウキビ)』を使ったカステラで、全国菓子大博覧会金賞受賞の品を賞味させていただきました。

カステラ(家主貞良・加須底羅)
鶏卵を泡立てて小麦粉・水飴を混ぜ合わせた生地をオーブンで焼いた菓子の一つ。
ポルトガルから伝わった南蛮菓子を元に日本で独自に発展した和菓子である。
場合によって、砂糖・牛乳・バター・バタークリーム・チーズ・バニラ・抹茶・黒糖・チョコレートなどを加えた変種も多く存在している。
日本における歴史
1846年(弘化3年)の川北温山『原城紀事』に、江戸時代中期に書かれた『耶蘇天誅記』からの引用として、1557年(弘治3年)に肥前唐津で布教を進めた宣教師が作った菓子類が挙げられており、その中に「角寺鐵異老」(カステイラ)がある。

1626年(寛永3年)の小瀬甫庵『太閤記』にも、宣教師が布教の際に「かすていら」などの南蛮菓子をふるまっていたことが書かれている。
日本で初めてカステラを焼いた具体的な人物としては、豊後府内に病院を設立して病人に滋養食として牛乳や牛肉を与え、大友宗麟を南蛮料理で饗応したこともある宣教師ルイス・デ・アルメイダや、1592年(文禄元年)に肥前名護屋で秀吉に南蛮料理や南蛮菓子をふるまった史料の残る村山等安などが候補に挙げられるが、明確な史料はない。

和三盆(わさんぼん)
主に香川県や徳島県で伝統的に生産されている砂糖(含蜜糖)の一種である。
和三盆糖(わさんぼんとう)ともいう。

和菓子などによく使用されることから、その産地として京都府などのイメージを持たれることも多いが、生産される和三盆糖のほぼすべてが香川県や徳島県で造られたものである。
産地や製法によってその見た目や風味が大きく異なり、その差は和三盆糖に含まれる糖蜜の量による。

産業化以前にはたいへん貴重であった美麗な色、細やかな粒子、口溶けの良さや、後に引かないすっきりとした甘さが特徴的である。
三盆の名は、「盆の上で砂糖を三度『研ぐ(とぐ)」という日本で工夫された独自の精糖工程から来たもので、国産高級砂糖の一つである。
また、その言葉の類似から「三温糖」と混同されることも多いが、この2つはまったく関係のない別の物である。和讃盆は一般名ではなく、特定のブランドである。

歴史
日本では江戸時代に砂糖の存在がすでに知られていたが、サトウキビの栽培地は南西諸島に限られており、造られる砂糖も黒砂糖が一般的であった。
日本の砂糖造りは、徳川吉宗が享保の改革において全国に糖業を奨励したことにより、全国に広まった。

讃岐和三盆
高松藩では、五代藩主松平頼恭公の命により、医師池田玄丈が砂糖造りの研究を始めた。
その後弟子の向山周慶(さきやましゅうけい)が後を継ぎ、砂糖キビの栽培および製糖法の研究を進めていた。

あるとき、向山周慶は、お遍路の途中で病気に罹り、行き倒れになっている人を治療して助けた。この人は薩摩藩奄美大島出身の関良介(せきのりょうすけ)という人で、砂糖造りをしたことがある人だった。
そこで、向山周慶は砂糖造りを教えて欲しいと頼んだところ、関良介は命の恩人の頼みを聞き入れ、藩外へ持ち出し禁止のサトウキビを讃岐地方で育てた。
そしてまず寛政2年(1790年)黒糖を造ることに成功し、寛政11年(1799年)には讃岐の地で初めて白砂糖造りに成功した。

この白砂糖が讃岐和三盆の始まりになる。高松藩は向山周慶と彼の推薦した砂糖作りの手練れの者1名を指導者として藩内で砂糖製造を広める方針を取り、その指導を求めるものは5人組で藩に届け出るようにと通達した(指導を行うにあたって教える側が向山周慶ともう1名しかいなかったので効率よく多くの者に教授するために5人組としたと言われている)。

菓子としての和三盆
こうして出来上がった和三盆糖は、粉砂糖に近いきめ細やかさを持ち、甘さがくどくなく後味がよいため、和菓子の高級材料として使用される。
また、口溶けのよさと風味のよい甘さから、和三盆そのものを固めただけの菓子が存在し、干菓子の代表格となるほどである。

代表的なものとしては、菓子木型を使用した打ちもの、球状に押し固めた和三盆を和紙に包んで羽根つきの羽根に似せたもの、懐紙に包んで懐に入れて持ち歩けるものなどがある。
しばしば和三盆の干菓子のことを落雁と呼ぶ人がいるがこれは誤りで、落雁は米粉などの澱粉質が主な材料であるのに対し、和三盆は基本的には着色料を除き和三盆糖100%のものを指す。

しかし近年ではつなぎの役割としてデンプンや水飴を使用するなど、混ぜ物をしたものも多いが、和三盆として売られているのが実情である。


