田島弥平旧宅(世界遺産)
台風14号のニュースが
18日(日)、台風14号が猛烈な勢力で九州に接近・上陸し、特別警報が発表される恐れがあり、動きが遅く、九州では19日(月)にかけて、これまでに経験したことのない大荒れの天気が長く続く恐れがあるとのニュースがあるなか、群馬県伊勢崎市を巡る旅に出かけました。
旧中山道仲宿
仲宿商店街は旧中仙道の最初の宿場町「板橋宿」に沿って南北に伸びている。狭小な町域を持ち、北端で石神井川に接する。
北で石神井川を隔てて本町および稲荷台、東で加賀、南で板橋、西で氷川町と隣接する。

西辺を国道17号(中山道)および首都高速5号池袋線が南北に通じ、南端に東京都道317号環状六号線(山手通り)の終点がある。
仲宿商店街は旧街道沿いを中心に商業地域となっている。商店街に加盟してる店舗は約140店ほどあり、商店街全体では150店くらいあります。
↑ 群馬県道境295線島村泉線(赤線表示) ↓
↑ 舗装路から砂利道に変わるり暫くすると道路標識は有るが通れる状態ではない ↓
↑ 伊勢崎市境島村2243(旧境島小学校1階西側) ↓
田島弥平旧宅(たじまやへいきゅうたく)
群馬県伊勢崎市境島村にある歴史的建造物まで2㎞の案内が。
明治初期に大きな影響力を持った養蚕業者田島弥平が自身の養蚕理論に基づいて改築した民家である。

「近代養蚕農家の原型」[とも言われるその旧宅は、2012年に国の史跡に指定され、2013年に「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として世界遺産リストに登録された。
田島弥平(たじま やへい)
(文政5年8月15日(1822年9月29日) - 明治31年(1898年)2月10日)
あるいは田島邦寧(たじま くにやす)は、明治時代前期に広く普及した養蚕技法「清涼育」(せいりょういく)を確立した、島村(現群馬県伊勢崎市境島村)の養蚕農家・蚕種製造業者である。

主著に『養蚕新論』『続養蚕新論』があり、養蚕業・蚕種製造業への貢献によって緑綬褒章を受章した。
太平洋戦争後まもない時期に群馬県が刊行した『上毛篤農伝』では、「群馬県の誇り」「蚕糸群馬が生んだ最大の巨人」等と賞賛されている。

弥平が自らの理論に基づいて改築した住居(田島弥平旧宅)は国の史跡に指定されており、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として世界遺産リストに登録された。
生涯
清涼育の確立
田島邦寧は文政5年(1822年)8月15日、上野国佐位郡島村の田島弥兵衛(たじま やへえ1796年 - 1866年)の長男として生まれた。字は子寧(しねい)、号は南畭(なんよ))。
父の弥兵衛は養蚕で財を成した人物であり、養蚕長者としてその名を知られていた。
のみならず、若いときから学問に熱心で、天保元年(1830年)に頼山陽を訪ねて門前払いを受けた際には、「僕かつて吉野に遊ぶ。桜花われを拒まず。
先生の門、吉野にしかざるは何ぞや」と豪語し、山陽を驚かせた。

弥兵衛は自宅を「遠山近水邨(村)舎」(えんざんきんすいそんしゃ)と称したが、それはこの時に家の中に招き入れた山陽の揮毫に由来するという。
邦寧は後年、この父の名を継いで「弥兵衛」と名乗り、次いで「弥平」を名乗った。
島村の村内には利根川が流れており、その流路の変更によって、島村は時期ごとに二分あるいは三分されてきた歴史を持つ。
島村の村内には利根川が流れており、その流路の変更によって、島村は時期ごとに二分あるいは三分されてきた歴史を持つ。
弥平が生まれた文政5年は利根川大洪水のあった年で、彼はまさにその最中に生まれたと伝えられている。
島村では19世紀初頭に蚕種製造業が始まっており、文政5年の大洪水を機に河原が開墾されて桑畑へとなり、さらに発達した。

田島弥兵衛の家は、田島武兵衛家の分家であり、ともに富裕な蚕種商人として、文化的素養も高かった。
田島弥兵衛家の瓦葺き蚕室は天保7年(1836年)に焼失した後、再建された。それは弥平が15歳のときで、このころから、弥平も蚕種製造業に従事した。
田島武平(現当主信孝)宅
屋号:桑麻館
文久3(1863)年建築
母屋:木造2階建 入母屋造 桟瓦葺
間口 11.5間(約21m)
奥行き 5間(約9m)
立派な屋敷神
桑麻館の2階蚕室は展示室になっており、数多くの展示品を仔細に見ることができます。
新地地区養蚕農家群
境島村には、世界遺産である田島弥平旧宅をはじめ、たくさんの特徴ある養蚕農家の建物が残されています。
これらの建物は、田島弥平が確立した養蚕飼育法「清涼育」の特徴である櫓があり、その敷地には石垣や石塀、かしぐねなどの生垣があるものも多く、蚕種業や養蚕業で栄えていた頃を彷彿させる集落景観を形成しています。
桑麻館 ↑新地地区養蚕農家群の№6
田島武平(たじま ぶへい1833-1910(天保4~明治43))(現当主信孝)宅
田島弥兵衛の本家、屋号を桑麻館(そうまかん)
明治4年、宮中養蚕の 世話方。
明治5年2月、群馬県蚕種大総代。
明治5年2月、渋沢栄一の勧めと指導で「島村勧業会社」設立し社長に就任。
明治13年、蚕種直輸出のためイタリアへ渡る。
この間 名主、郷長、県会議員、村長等を務めた。

進成館 ↑新地地区養蚕農家群の№2
慶応年間(1865~1868年)に現在地の東隣に建てられ、明治41年(1908年)に現在の場所に曳家したとの伝承がある。屋号は、「進成館(しんせいかん)」である。
大規模な総二階建の建物で、屋根上には総櫓を設ける。一階の大部分を居住などの生活に使い、土間の一部は桑場として、二階全体を蚕室として用いていた。境島村では珍しい入母屋造りであり、大規模な蚕種製造民家で初期につくられた例として重要な建造物である。

栄盛館 ↑新地地区養蚕農家群の№2
田島定吉宅。屋号は栄盛館。
文久元年(1861年)の建築で、木造2階建て切妻造り。桟瓦葺きで3つ櫓。

對青廬 ↑新地地区養蚕農家群の№5
田島林平宅。屋号は對青廬(たいせいろ)。
慶応2年(1866年)の建築で、木造2階建て切妻造り。桟瓦葺きで総櫓。
すべて田島家だが、みな親戚だという。
当主の名前は建築当時の方。これらの養蚕農家群は、田島弥平旧宅のように文化財指定されているわけでもなく、現在もご子孫が居住されているため、敷地内への立ち入りは不可です。敷地外から、かつ節度をもって見学させてもらいましょう。

有隣館 ↑新地地区養蚕農家群の№4
田島亀夫家住宅主屋
明治2年(1869)頃に建てられた民家です。主屋は、桁行12間(約21.8m)・梁行5間(約9.1m)の木造総二階建ての背面に下屋が付属します。屋根は切妻造の桟瓦葺です。建物内部には、大床や付書院を備えた座敷を構えます。
田島亀夫家は、かつて「有隣館(ゆうりんかん)」の屋号で蚕種業を営んでおり、主屋2階は蚕種製造の場として利用されていました。
そのため、屋根の最頂部には、養蚕に必要な採光や煙抜きのための、別の棟をもつ小さな屋根をのせた越屋根(こしやね)を三箇所備えます。田島亀夫家住宅主屋は、明治初期に建てられた地域最大級の民家で、蚕種製造の様子を知る上で貴重な建物として、歴史的景観に寄与するものです。
実はこの「有隣館」だけが群馬埼玉県境の埼玉側になります。
埼玉県本庄市宮戸字西浦650-3
















