金蒔絵の手箱
漆器の表面に漆で絵や文様、文字などを描き、それが乾かないうちに金や銀などの金属粉を「蒔く」ことで器面に定着させる技法、もしくはその技法を用いて作られた漆器のこと。

 

金銀の薄板を定着させる「平文(ひょうもん)」または、「平脱(へいだつ)」や漆器表面に溝を彫って金銀箔を埋め込む「沈金(ちんきん)」、夜光貝、アワビ貝などを文様の形に切り透かしたものを貼ったり埋め込んだりする「螺鈿(らでん)」などとともに、漆器の代表的加飾技法の一つである。

特に日本で発展し汎用された日本の漆器における代表的な技法である。「蒔絵」という用語は平安時代に初めて登場した。

 


工程上の分類
蒔絵は、工程上の分類として大きく分けると平蒔絵、研出蒔絵、高蒔絵の3つの技法に分類される。

これに研ぎ出し蒔絵と高蒔絵を組み合わせた肉合蒔絵も含めた4つの技法が代表的な蒔絵の技法である。

1905年(明治38年)勲一等旭日大綬章を受章。夫人とともにドイツへ帰国に際し。皇太子ご夫妻(後の大正天皇・皇后)から、其の功績を称えられ特製の金蒔絵の手箱が贈られました。

その後ベルツ家で大切に保管されていましたが、草津町とビーティハイム市しとの姉妹都市締結記念式で、孫のハット・ベルツ氏より寄贈されたものです。


 

大正天皇
(1879年〈明治12年〉8月31日 - 1926年〈大正15年〉12月25日)日本の第123代天皇(在位: 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日 - 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日)。

諱は嘉仁(よしひと)、御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。

 

↑ 明治中期の草津温泉湯畑 ↓

 


1879年(明治12年)8月31日誕生。明治天皇の唯一成人した皇男子(三男)であるものの、生誕時より病弱で幾度も大病に罹った。

幼年期の個人授業の後、学習院初等科に途中入学するが、発達の遅れから中等科1年で中途退学。

8歳で儲君、11歳で皇太子となる。皇太子妃選定における混乱(大正天皇婚約解消事件)を経て九条節子と結婚し、後の昭和天皇をはじめ4人の皇子(皇男子)をもうけた。

また、皇太子時代には沖縄県を除く各道府県を巡啓したほか、1907年(明治40年)には史上初の皇太子の海外渡航として大韓帝国を訪問した。


 

↑ 人類学研究沖縄出身軍人 

ベルツ夫妻の肖像/ベルツ博士とスクリバ博士の胸像 ↓

 

 

 1912年(明治45年/大正元年)7月30日、父・明治天皇の崩御に伴い第123代天皇に即位。憲政史上及び大日本帝国憲法下で初めて皇位を継承した。

生誕まもなく髄膜炎を患っており、その後健康を取り戻していたが、即位式の翌年頃から健康状態が悪化し、公務のみならず日常生活にも支障を来すようになる。

1920年(大正9年)以降、病状が公表され世間に知られるところになり、1921年(大正10年)、長男の皇太子裕仁親王が摂政に就任し、療養生活に入った。

しかし、その後も体調は回復せず、1926年(大正15年/昭和元年)の暮れの12月25日、肺炎に伴う心臓麻痺のため、47歳で崩御。

 

↑ ベルツ夫妻の肖像 ↓

 

 

↑ ベルツ一家 ↓

 

 

第一回日本聯合医学会開会式
日本医学会
日本医師会の下に設置された医学系学会の連合体。「医学に関する科学および技術の研究促進を図り、医学および医療の水準の向上に寄与する」ことを目的とし、総会やシンポジウムの開催等を行っている。


 

下部学会でありながら、非常に古い歴史をもっている。1902年(明治35年)、16分科に約1700名が参加して開催された「第1回日本聯合医学会」を起源とする。

第3回以降「日本医学会」と改称し、以後、終戦直後を除いて4年毎に開催されている。

現在、常設化され日本医師会の一部としての位置づけがなされ、136分科会を擁しているが、今後のあり方について協議されている。


 

↑ 日独国旗とビーティハイム市旗

 

ビーティハイム市
ドイツ連邦共和国バーデン・ヴュルテンベルク州にある、故エルウィン・フォン・ベルツ博士の生誕の地。ワインや木製家具、建築床材(リノリウム)の生産が有名です。 

草津の温泉の効能と高原気候のすばらしさを世界に紹介した博士の功績と遺徳をしのび、草津町の姉妹都市提携第1号として交流が始まりました。


 

ジュリウス・カール・スクリバ
(1848年6月5日 - 1905年1月3日)
ドイツの外科医。明治期のお雇い外国人で日本における西洋医学の発展に重要な貢献をした。


 

↑ 左がベルツ 右がスクリバ/この胸像は西の河原に有ります ↓

 

 

1870年代はじめ日本の明治政府はヨーロッパで最も進んでいると考えたドイツ医学界から、医学教育を革新するために医師の派遣を要請し、レオポルト・ミュルレル、テオドール・ホフマンらが招かれ、内科のエルヴィン・フォン・ベルツとジュリウス・スクリバはその次の世代として日本の医学教育に貢献した。

1881年7月6日から東京帝国大学で外科、皮膚科、眼科、婦人科を教えた。契約の満了によりドイツに一度戻るが、契約は1889年9月2日から1901年9月10日までに延長されたため再来日する。



 

1892年に日本における頭蓋陥没骨折治療のために頭蓋骨切除の手術を行った。後に日本の外科学をリードする外科医を育成し、助手の三宅速などが著名である。

ドイツ大使館の医師を務め、1901年に退職した後は聖路加病院の外科主任を務めた。日本外科学会の名誉会員、東京大学の名誉教授となった。
 
下関で、下関条約締結のために来日していた清国の李鴻章負傷事件、ロシア帝国の皇太子ニコライが負傷した大津事件などで、日本政府の要請により現地に出張した。 


 

西の河原(にしのかわら)
西の河原は草津温泉の名所の一つで周辺は公園として整備されています。草津温泉街の西方にあるので「西の河原」と呼んでいます。

「西の河原」=「にしのかわら」が本来の読み方であって「さいのかわら」と読むのは誤読でしたが、現在は看板や案内図にも「SAINOKAWARA」と読みが書かれていますので、「さいのかわら」と呼ぶのが一般的になっているようです。

昔は「鬼の泉水」といい、今も鬼の茶釜、鬼の相撲場などの名勝があります。河原の至るところから摂氏50度以上の温泉が湧き出し、その量は毎分1万5千リットルに及んでおり、湯の川となって流れています。

公園内には町営の大露天風呂や自然資料館(ビジターセンター)のほかに、日本近代医学の恩人ベルツ、スクリバ両博士の胸像や歌人斉藤茂吉の歌碑などが建っています。
四季の風光が素晴らしい温泉公園です。



 

草津温泉の西の河原でも温泉の硫黄臭が発ち込め、荒涼とした景観の中、源泉やそこからあふれ出る温泉の川、多くの石積み、水子地蔵などが建立されており当時の民俗風習の名残が見られます。


 

↑ 6月7日・ベルツ記念館前の外気温 ↓

 

 

ベルツは大変な健脚で噴火直後の草津白根山にも登頂したことがあり、その際の手記は現在でも貴重な火山学的資料になっている。

伊香保温泉には別荘を構えて友人知人と幾度となく訪ねた。

日本の天皇家や高官の別荘地葉山との関係
澤村修治によると、ベルツの推奨により、天皇家や日本の高官が葉山に御用邸や別荘を持つことになったとある。

実際葉山の葉山森戸神社に駐日イタリア公使のマルチーノ(イタリア語版)とベルツが当地を保養に適当と推奨したという石碑がある。

ベルツはいわば宣伝マンとなったとある。明治天皇は殆ど皇居内で過ごし避暑、避寒はされなかったが、後に大正天皇になる嘉仁親王の健康が思わしくなく、侍医となったベルツが転地保養を勧めた。

有栖川宮熾仁親王はイタリア公使マルチーノの別荘に明治22年に訪れている。親王は明治24年に別邸を作り、皇太子もそこに訪れている。葉山の御用邸は明治27年1月完成した。

蒙古斑
ベルツの医学的貢献でよく知られているのは1885年(明治18年)の蒙古斑の命名である。

ベルツ水
1883年(明治16年)、箱根富士屋ホテルに滞在中、女中の手が荒れているのを見たのをきっかけに、「ベルツ水」(日本薬局方:グリセリンカリ液)を処方する。

日本美術・工芸品の収集
ベルツは、親友のハインリヒ・フォン・シーボルトの影響を強く受け蒐集活動にも取り組む。

花夫人(シーボルト夫人の名も同じ(岩本)ハナ)の協力を得ながら、江戸時代中後期から明治時代前半にかけての日本美術・工芸品約6000点を収集した。

特に、絵師の河鍋暁斎を高く評価し、親しく交わった。ベルツ・コレクションは、シュトゥットガルトのリンデン民俗学博物館(独: Linden-Museum)に収蔵された。

ドリス・クロワッサン、若林操子編集解説 『ベルツ・コレクション日本絵画 リンデン美術館蔵』 講談社、1991年。図版編と解説編の2分冊。

ベルツ賞
1964年、ドイツの製薬会社・ベーリンガーインゲルハイム社によって、日独両国間の歴史的な医学関係を回顧すると共に、両国の医学面での親善関係を更に深めて行く目的で「ベルツ賞」が設立された。

ユリウス・カール・スクリバ
(1848年6月5日 - 1905年1月3日)は、ドイツの外科医。明治期のお雇い外国人で日本における西洋医学の発展に重要な貢献をした。

1870年代はじめ日本の明治政府はヨーロッパで最も進んでいると考えたドイツ医学界から、医学教育を革新するために医師の派遣を要請し、レオポルト・ミュルレル、テオドール・ホフマンらが招かれ、内科のエルヴィン・フォン・ベルツとユリウス・スクリバはその次の世代として日本の医学教育に貢献した。

妻は康子といいドイツ国籍、長男フィリップ(1891年生)、二男エミール(1892年生)、三男ヘンリー(1897年生)を儲けた。

長男は13歳でドイツへ渡り、当地の大学で応用化学を専攻した。

二男はドイツの陸軍士官で青島戦に参加したため日本軍の捕虜となり、長い間習志野で俘虜生活を続けた。

三男は暁星中学から慶応義塾の理財科に進学した。一家は平河町に990年の永代貸借権を持つ約1000坪の土地を持ち、そこで暮らした。青山墓地に墓所がある。