亀戸浅間神社
祭神
木花咲耶比売命(コノハナサクヤヒメ)

霊峰富士の守り神として開運・縁結びなど、特に安産、子育ての神としてご信仰を集めている。



 

歴史
創建は大永7年(1527年)とされる。富士信仰の尤も盛んな時代に、里人たちが甘露寺元長に勧請し、霊峰富士山の御守護神・木花咲耶比売を戴き、笄塚の上に浅間社として創立し、ご遷座を成したとされる。


現在の社殿は、昭和二十年の東京大空襲にもその難を免れ無事だったことから、地元の人々からは火伏の神としても信仰されている。

主な祭事
夏越の祓


年越納めの祓
この2つの祭事の際には茅の輪が披露され、恒例の神事となっている。


 

関東一の茅の輪くぐりや亀戸の富士塚などの他にも「石造鳥居」
「修庭記碑」「石造燈籠」「敷石及修繕費奉納碑1基」「身禄歌碑」
「たのみの辞碑」と江東区登録有形文化財が亀戸浅間神社にはたくさんあります。

御由緒
亀戸浅間神社は、社伝によれば大永七年(1527)に創建されました。祭神は木花咲耶比売命です。もともとこの辺りの地は高貝洲と呼ばれていました。

これは日本武尊が東征した時に海が荒れ狂ったため、弟橘媛が海に身を投じ、その際に身につけていた笄が亀戸浅間神社のあるあたりに流れ着いたことによるものです。

のちに景行天皇(第十二代と伝えられる)がその地に笄塚を建てたとされています。この笄塚の場所に富士塚が築かれ、江戸時代には多くの信仰を集めました(境内「亀戸の富士塚」文化財説明板を参照)。

本殿は安政二年(1855)の江戸大地震、大正十二年(1923)の関東大震災で被災しました。現在の本殿は昭和初年に建立されたもので、平成十年(1998)の大島・亀戸・小松川防災再開発事業にともなって、今の位置に移動しています。

境内には亀戸の富士塚や享和元年(1801)在銘の富士せんげん・亀戸天神・六阿みだ・あさくさ道道標(いずれも区指定有形文化財)など数多くの文化財が残されています。

また、かつて神社境内のそばを通っていた城東電気軌道の線路も残され、関東最大の茅の輪を作る(茅の輪くぐり)神事が年二回行われるなど、亀戸東部地域の歴史や民俗を伝える鎮守として、人々の信仰をあつめています。(境内の掲示より)



 
茅の輪くぐりとは
元々は、茅(ちがや)を束ねて大きな輪としたもの。


 

正月から六月までの半年間の罪穢(つみけがれ)を祓う夏越の大祓(おおはらえ)に使用され、それをくぐることにより、疫病や罪穢が祓われるといわれています。

今では、多くの神社では「芦」を使っているようです。


 

6月は、どこの神社も芦が手に入りますが、12月は芦が手に入らないことから早刈りの稲藁を使うところが多いようです。


 

↑ 茅の輪を潜り左周りをして 正面に  ↓

 

 

これにより夏の大祓では茶色の輪、年越しの祓では青みのある輪がみられるかもしれません。

時期的には、6月末から7月中。そして年末に行われるのが通例です。
6月の大祓のことを、夏越の祓(なごしのはらえ)と呼んだり、



↑ 再び茅の輪を潜り 今度は右周りをして正面へ ↓

 

 

12月の大祓のことを、年越の祓(としこしのはらえ)と呼んで親しまれています。
通常、「茅の輪くぐり」は、夏越の祓(なごしのはらえ)に行われる行事です。

 

 

↑ 直進し、路順案内に従って本殿へ ↓

 

 

茅の輪くぐりの由来
どうして大祓の時に茅の輪をくぐるのかというと、その由来は、奈良時代に編集された備後の国風土記(びんごのくにふどき)によると、次のようなことだそうです。


 

日本神話の中で、ヤマタノオロチを倒した素盞鳴尊(すさのおのみこと)が、南海の神の娘と結婚するために、南海で旅をしている途中、蘇民将来(そみんしょうらい)、巨旦将来 (こたんしょうらい)という兄弟のところで宿を求めたところ、弟の巨旦将来は裕福であったにもかかわらず宿泊を拒んだのに対し、兄の蘇民将来は貧しいながらも喜んで厚くもてなしました。


 

その数年後、再び蘇民将来のもとを訪ねた素盞鳴尊は「もし悪い病気が流行ることがあった時には、茅で輪を作り腰につければ病気にかからない」と教えられました。

そして疫病が流行したときに巨旦将来の家族は病に倒れましたが、蘇民将来とその家族は茅の輪で助かったというのです。


 

↑ 神職の浅沓と参拝者の履物 ↓

浅沓(あさぐつ)
神職にとってはこれが最も正式な履物になります。
この浅沓を履いて石畳の参道を歩くと、靴底の木と参道の石面がぶつかって、カッポカッポという独特の音が発せられます。

但し最近の浅沓は、安全に配慮して、靴底にゴム製の滑り止めが付けられている事あります。
足の甲が触れる場所に込(こみ)という白色の綿入平絹を差し込み、沓底には沓敷を貼る。

白綾、奏任官は白平絹の沓敷を貼る。また神職は一級以上は白綾有紋、二級以下は白平絹を用いる。出雲大社では、国造は白綾、一級以下は白平絹無紋である。

 

 

この言い伝えから「蘇民将来」と書いた紙を門にはっておくと災いを免れるという信仰が生まれました。

茅の輪も当初は伝説のとおり小さなものを腰に付けるというものでしたが、しだいに大きくなって江戸時代初期になり、大きな茅の輪をくぐって罪や災いと取り除くという神事になった。というのが由来です。


 

茅の輪くぐりの意味
茅の輪くぐりは、正月から半年間のケガレを祓い、残り半年の無病息災を祈願するという意味があります。


 

茅の輪をくぐることで禊(みそぎ)をして邪悪な穢れ(けがれ)を祓い(はらい)、災難を予防する為のものです。

基本的に6月30日に行われ、夏越の祓(なごしのはらえ)と言われています。
特にこの梅雨の時期から夏にかけては、天然痘などの疫病がはやることが多かったようです。

そういった疫病除けに茅の輪が有効と考えられていたようです。


 

また、大祓では茅の輪をくぐるだけではなく、ひとがたに切った白紙などの人形の身体に息を吹きかけ、身代わりとして水に流す。という儀式も行われます。

これは茅の輪と同様に知らず知らずのうちに犯した罪や、積り積もった心身の穢れを取り除くことができるといわれています。

心と身体をきれいすれば幸せが招きやすくなり、さらに多くの幸福が訪れるという大祓。


 

↑ 御朱印 ↓

 

 

境内の案内板に
亀戸浅間神社は、社伝によれば大永七年(1527)に創建されました。祭神は木花咲耶比売命です。もともとこの辺りの地は高貝洲と呼ばれていました。


 

↑ 有形文化財石造鳥居 ↓

 

 

これは日本武尊が東征した時に海が荒れ狂ったため、弟・橘媛が海に身を投じ、その際に身につけていた笄が亀戸浅間神社のあるあたりに流れ着いたことによるものです。


 

↑ 灯篭と神輿倉 ↓

 

 

のちに景行天皇がその地に笄塚を建てたとされています。この笄塚の場所に富士塚が築かれ、江戸時代には多くの信仰を集めました。



本殿は安政二年(1855)の江戸大地震、大正12年の関東大震災で被災しました。現在の本殿は昭和初年に建立されたもので、平成10年の大島・亀戸・小松川防災再開発事業に伴って、
今の位置に移動しています。-とあります。


 

「たのみの辞碑」は当地の由来を記した碑とのこと。