経歴
↑ 主屋の左側に配置された庭園 ↓
誕生
天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)に父・渋沢市郎右衛門元助(1810年 - 1871年)、母・エイの長男として生まれた。

↑ 左側と正面の蔵Ⅱで藍玉作っていた ↓
幼名は栄二郎。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎を名乗る。渋沢成一郎は従兄にあたる。
渋沢家は藍玉※の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農だった。

原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。
栄二郎も、父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行った。
14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想に繋がったといわれる。
藍玉(あいだま)※
日本人の生活に深く根付いてきた藍染染料の一種。
藍の葉を発酵・熟成させた染料である蒅(すくも)を突き固めて固形化したもの。玉藍とも。

藍の葉を収穫して乾燥させた後、蔵の中で寝かせ、これに水を打って良く湿らせながら上下に撹拌し、約75-90日間発酵させたものを再び乾燥させると、無色の物質であるインディカンが酸化されて青色のインディゴへと変化して、その色が濃くなることで黒色の土塊状の物質が出来る。

↑ 渋沢栄一のアンドロイド ↓
↑ 渋沢栄一アンドロイド(和装姿) ↓
80歳頃の姿をイメージして制作した和装姿の渋沢栄一アンドロイドを、旧渋沢邸「中の家」の主屋において公開しています。
渋沢栄一アンドロイドは、株式会社ドトールコーヒー名誉会長 鳥羽博道氏(深谷市出身)からの寄付を財源に、寄付者の意向を踏まえ制作したものです。
これを蒅(すくも)と呼ぶ。蒅の状態でも染料としては十分使用可能であったが、運搬に不向きであったために後にこれを臼で突き固めて乾燥させて扁円形の小さな塊にすることによって運搬を容易にした。これが藍玉である。
↑ 主屋の裏側へ ↓
江戸時代以後、全国各地で流通に便利な藍玉の生産が盛んになったが、特に阿波藩のものは良質として知られ、全国でも屈指の産地として全国的に市場を有した。
↑ 主屋の左端 正門 ↓
しかし、明治以後にはインド産の流入や化学染料によって人工的に藍色が出せるようになったこと、更に輸送手段の発達によって蒅の状態での輸送が可能になったことにより、藍玉そのものの生産は衰退していくことになった。

椨の木(タブノキ)
高さは20メートルほど。太さも1メートルに達する場合がある。
若い枝は緑色で、赤みを帯びる。芽は丸くふくらむ。葉は枝先に集まる傾向があり、葉は長さ8 - 15センチメートル、倒卵形。革質で硬く、表面はつやがあって深緑。
花期は4~6月。黄緑色であまり目立たない花を咲かせる。8 - 9月ごろ球形で黒い果実が熟す。果実は直径1センチメートルほどで、同じクスノキ科のアボカドに近い味がする。
防風の機能を有する樹種(防風樹)として知られる。
枝葉には粘液が多く、乾かして粉にするとタブ粉が得られる。タブ粉は線香や蚊取線香の材料の1つ(粘結材)として用いる。樹皮や葉は染料に用いられる。材は、建築、家具などに使われる。


















