旧渋沢邸「中の家」

 

↑ 旧渋沢邸「中の家」案内板 ↓

 

 

 

↑ 旧渋沢邸「中の家」2021年4月18日 2020年6月1日コロナで見学中止 ↓

 

 


埼玉県指定旧跡「渋沢栄一生地」 旧渋沢邸・渋沢栄一生地「中の家(なかんち)」


この屋敷は、渋沢家の住宅等として使われてきたもので、通称「中の家(なかんち)」と呼ばれている。


 

↑ 旧渋沢邸正門 主屋 ↓

 


渋沢一族はこの地の開拓者のひとつとされるが、分家して数々の家を起こした。「中の家」もその一つで、この呼び名は、各渋沢家の家の位置関係に由来するものである。

 

↑ 旧渋沢邸案内図 若き日の栄一像 ↓

 

 

現在に残る主屋は、明治28年(1895)、市郎により上棟されたものである。梁間5間、桁行9間の切妻造の2階建、西側に3間×3間の平屋部分等を持つ。

 

また、主屋を囲むように副屋、土蔵、正門、東門が建ち、当時の北武蔵における養蚕農家屋敷の形をよくとどめている。

 

 

尊攘派志士から、一橋慶喜の家臣へ 1861年~
文久元年(1861年)には江戸に出て海保漁村の門下生となる。また北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。

 

 

その影響から尊皇攘夷の思想に目覚め、文久3年(1863年)従兄で義兄の尾高惇忠、同じく従兄の渋沢喜作らと、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画をたてる。

 

しかし、惇忠の弟・尾高長七郎(従兄弟)の懸命な説得により中止する。

 

 

親族に累が及ばぬよう父より勘当を受けた体裁を取って、従兄の喜作と連れ立って京都に出るが、八月十八日の政変直後であったため、勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになる。

 

 

当時、慶喜は朝議参与として京都に常駐していた。仕官後、慶喜が朝廷から禁裏守衛総督を拝命するが、御三卿は自前の兵力を持っていない為、兵力調達が急務となり、栄一が一橋家領内を巡回し農兵の募集で手腕を発揮した。

 

 

幕臣となりヨーロッパへ 1867年~
慶応2年(1866年)12月、主君の慶喜が将軍となったことに伴って幕臣となる。

 

パリで行われる万国博覧会(1867年)に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟・徳川昭武(後の水戸徳川家11代当主)の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書を得て、フランスへと渡航する。

 

 

パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。各地で先進的な産業・諸制度を見聞すると共に、近代社会の在り様に感銘を受ける。

 

 

↑ 中の家には土蔵が四棟有るがそのⅠとⅡが並んで建っている ↓

 


代々当主は、市郎右衛門を名乗っていたが、古くは、新七郎(安邦)の名まで知られている。

 

↑ 左が土蔵Ⅰ 土蔵と土蔵の間が東門 右がⅡ ↓

 


中の家は、代々農業を営んでいたが「名字帯刀」を許され、市郎右衛門(元助:栄一の父1809頃~1871)のときには、養蚕や藍玉づくりとその販売のほか、雑貨屋・質屋業も兼ねてたいへん裕福であった。

 

この家に、後に日本近代資本主義の父と呼ばれる栄一が生まれた。


 

↑ 現上皇両陛下行啓記念樹 ↓

 

 

↑ 行啓記念樹は土蔵Ⅱの前で行なわれた ↓


 

↑ 土蔵Ⅱ ↓

 

 

 

↑ 土蔵Ⅱと福屋 ↓

 

 

↑ 福屋と外塀(2020年6月1日) ↓

 

 

 

↑ 正門の右側外塀(2020年6月1日)角が福屋 ↓

 

 

養蚕や藍玉づくりとその販売のほか、雑貨屋・質屋業も兼ねて大変裕福であった。

 

 

↑ 福屋に沿って進むと土蔵ⅠとⅡ(2020年6月1日)が見える ↓

 

 

↑ 東門(2020年6月1日)が見える 2021年4月18日  ↓