浅草神社宮司姓
「浅草神社」の宮司の姓は「土師」が本来であり、これ程の我が国の歴史と文化を背負っていることは、我々浅草の氏子にとっても誇りです。

そして連綿と続く「土師」の系統を以て、観音様と三社様の御縁や御由緒、更には浅草草創の歴史的経緯を、氏子はじめ浅草内外に向けて発信し、地域社会の更なる発展・活性化に繋げていくべきであります。

「土師」から「矢野」の姓を継がれている現宮司も、我々総代はじめ氏子代表者の要望を受け、「土師」姓への改姓を決意されました。
ついては、ご本人のご決意と氏子の総意を以て、今後は「浅草神社 宮司 土師(はじ)泰良(やすら)」として神明奉仕に更にご尽力頂きたく存じます。

本改姓の趣旨を浅草の街をはじめ世間に広く知らしめるべく、またこの慶事を記念して、平成30年3月18日に「浅草神社三柱の石碑」を同社内に建立する運びとなりました。

氏子・崇敬者をはじめご関係の皆様には、上記の経緯をご賢察賜りまして、ご理解・ご協力の程をお願い申し上げる次第でございます。
浅草神社宮司姓「土師(はじ)」姓への改姓 趣意書
平成29年10月18日
浅草神社総代会 浅草神社宮司土師姓改姓委員会から一部抜粋。

浅草神社三柱の石碑
土師真中知命(はじのまなかち)
檜前浜成命(ひのくまはまなり)
檜前武成命(ひのくまたけなり)
ご祭神について 浅草寺の草創に関わった土師真中知(はじのまなかち)、檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)を主祭神とし、東照宮(徳川家康)・大国主命を合祀する。
檜前浜成・武成の他のもう一柱の主祭神については諸説あったが、現在では土師真中知であるとしている。
この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになった。

夫婦狛犬は縁結びのパワースポット
身体の大きさが違うので、どちらが夫でどちらが妻か、なんとなくわかりますね。
夫が阿形(口を開いているほう)で妻が吽形(口を閉じているほう)でしょうか。

寄り添った上に、相合傘までさしています。小ぶりでかわいらしいです。
良縁や夫婦和合、恋愛成就などにご利益があるのだとか。
初代市川猿翁句碑
孫団子に三代目猿之助を譲り、自らは猿翁を襲名。
昭和38年(1963)5月、歌舞伎座に於て襲名興行。(浅草寺の襲名お練りは4月16日)
「翁の文字まだ身にそはず 衣がへ 猿翁 昭和37年(1962)5月 猿翁襲名のとき」とある。

久保田万太郎句碑
竹馬や いろはにほへと ちりぢりに
昭和四十年(1965)建立。 久保田万太郎は明治22年(1887)11月7日此地に生まれ、市立浅草尋常小学校へ入学、府立三中に学び大正3年(1914)慶應義塾大学文科を卒業し、10月移転する迄の26年間浅草に在住した。
昭和38年(1963)5月6日永眠するまでの明治・大正・昭和の三代に亘り、常に下町の義理と人情を描写した小説、戯曲の作品多く、其他文学、演劇界に多大の功績を残した作家であった。
川口松太郎句碑
生きるということむずかしき夜寒かな
明治32年10月1日浅草今戸の生まれ。昭和10年第1回直木賞受賞の「鶴八鶴次郎」を初めとして、小説脚本に名作多く文壇劇団に多大な足跡をしるす。
特に新派俳優花柳章太郎、水谷八重子等によって演じられた情緒豊かな緒作品は観客を魅了した。
故人の終生の師久保田万太郎の傍らに、同じく句碑を建てて逝者偲ぶ。
粧太夫句碑
新吉原の遊女粧太夫は教養高く、蕋雲の号を儒者亀斎より受け、文化13年(1816)万葉仮名で人麿の歌を自筆した。
浅草神社境内には、山東京伝書案之碑・義太夫の津賀太夫碑をはじめ、由緒深い石碑が幾つも立っている。
なかでも遊女、自らが書いた力強い筆使いに、人麿の明石の浦の歌を刻んだ石碑は全国でも珍しいといわれている。
江戸時代は文化年間、新吉原半松楼の遊女粧太夫は、当時の儒学者である亀田鵬斎から「蕋雲」の号をもらうほど学識豊で教養高い名妓だった。
そのほか実技流をとなえていた中井敬義について書道を学び、和歌をこよなく愛していた。
また、当時は、かつて熱心に信仰していた人麿社という柿本人麿をまつったものもあったという。
↑ 粧太夫句碑 久保田万太郎句碑 川口松太郎句碑 ↓
↑ 浅草神社 浅草寺宝蔵門・五重塔 ↓

















