一夜城の完成
↑ 一夜城歴史公園駐車場から、旧城通東登口を登り石垣山城へ ↓
6月初頭に小田原の秀吉の陣へ陸奥国の大名の伊達政宗が出頭した際は石垣山城は未だ完成途上であった。
同地にいた豊臣政権中枢に近しかった茶人で商人の千利休が、茶人大名の古田織部に宛てた同月20日付けの書状には「今月中に出来上がる」という趣旨のことが記されている。
それによれば、6月26日に完成したとされている。
およそ10日後の7月5日、北条氏直は小田原城を出て降伏を申し出ている。
秀吉はこの城で茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えた。当時、天守があったかは不明であるが、天守台跡はある。
関東大震災で石垣に被害を受けたが、井戸曲輪の石垣は地震に耐えて現在もよく残っている。
この城の縄張りを行った者について、城郭研究者の外川淳などは、長方形の郭や濠などがこの後に秀吉の命で築かれた肥前国の名護屋城に非常に似ていることから、同じ担当者すなわち黒田如水であったと推測している。
1959年に国の史跡に指定され、現在は石垣山一夜城歴史公園として整備されている。
秀吉が伊達政宗と謁見した際、政宗に刀を預けて丸腰のまま陣所を案内したとされる巷談、秀吉が徳川家康に対し、関東移封を伝えたとされる巷説「関東の連れ小便」、どちらも舞台はこの城である。

↑ 馬屋曲輪石垣 ↓
↑ 両側にはシャガが咲き乱れている ↓
石垣山
小田原城の南西約2.8キロメートル地点に所在し、天正18年(1590年)、豊臣秀吉が後北条氏の小田原城を攻略した際、築いた本陣のあったところであり、その名称は城壁の石垣に由来している。
旧名は笠懸山と称した。なお、石垣山城は、関東で最初に造られた総石垣の城であり、その石積みは近江国の穴太衆による野面積みといわれる。
本陣は、4月5日に着工して6月26日に竣工し、山頂部を占めて早川を隔て眼下に小田原城方面を一望のうちにおさめることに成功した。
城跡は、長い年月を経たうえ、1923年(大正12年)の関東大震災で数多くの石垣が崩壊してしまったが、本丸を最高地点として二の丸、南曲輪、井戸曲輪などが配置されて、雄大な石垣ものこり、当時の規模や構造が明瞭に観察できる。
なかでも「井戸曲輪」は、谷状地の底部に湧き出る湧水の清浄さをまもるためにわざわざ石垣をめぐらせたもので、きわめて稀少な遺構である。
小田原征伐後は廃城となったが、その歴史的意義とあわせて城歴が限定されていることは、築城史を研究する際の規準となる遺跡であり、学術上の価値が高いことから、1959年(昭和34年)5月13日、国の史跡に指定された。現在は「石垣山一夜城歴史公園」として史跡の保存と整備が進められている。

↑ 馬屋曲輪二の丸(正面の小高い上が本丸) 二の丸 ↓























