箱根巡りシリーズ神社仏閣(写真は全て4月6日撮影)
↑ 福住家の墓所 ↓
中央に「贈従五位 故 福住正兄 特旨ヲ以テ位記ヲ贈ラル 大正十三年二月十一日 宮内省」とあり、「福住正兄翁墓」「福住歌子刀自墓」と刻まれていました。
福住正兄(ふくずみ まさえ)
1824-1892 江戸後期-明治時代の農政家、実業家。報徳仕法の研究・実践者。
文政7年(1824年)8月21日生まれ。幼名は「政吉」。7歳のとき儒学者千賀桐陰の教えを受ける。
政吉は当初、天保の大飢饉で疲弊した貧しい農民を救うべく医術の道を志していたが、
「人を病を治す医者になるよりも、国の病を治す医者になるべし。それには国の病を治す医者として当世第一人者の二宮先生に教えを請うのが良い。」
との父の勧めに従って弘化2年(1845年)10月、21歳のときに二宮尊徳の門下生となった。
嘉永3年(1850年)10月、正兄は尊徳の元を辞して、親戚筋である福住家に養子に入り「10代目九蔵」に改名した。
福住家は代々箱根湯本で旅館業を営み、また湯本村の名主も務める名家であったが、9代目九蔵の代に火災に遭ったこともあり、家業は衰退していた。
尊徳の教えを受けた正兄に福住家復興の期待を託した養子縁組であった。分度、推譲といった報徳仕法の実践に努めた正兄は、わずか1年で福住家の復興を成し遂げ、家業は隆盛し嘉永4年(1851年)11月、27歳にして湯本村の名主となった。
明治25年(1892年)5月20日没。遺骸は箱根早雲寺に埋葬される。
大正13年(1924年)2月、生前の功績により正五位の追贈を受ける。
現在、子孫が湯本で旅館「萬翠楼」を営む。
大正13年(1924年)2月、生前の功績により正五位の追贈を受ける。
現在、子孫が湯本で旅館「萬翠楼」を営む。
境内
庭園 - 北条幻庵作
北条 幻庵(ほうじょう げんあん) / 北条 長綱(ほうじょう ちょうこう)は、戦国時代の武将。
北条 幻庵(ほうじょう げんあん) / 北条 長綱(ほうじょう ちょうこう)は、戦国時代の武将。
伊勢盛時(北条早雲)と駿河の有力豪族であった葛山氏の娘との間に生まれた4男。箱根権現社別当。金剛王院院主。
人物像
作法伝奏を業とした伊勢家の後継者として文化の知識も多彩で、和歌・連歌・茶道・庭園・一節切りなどに通じた教養ある人物であった。
作法伝奏を業とした伊勢家の後継者として文化の知識も多彩で、和歌・連歌・茶道・庭園・一節切りなどに通じた教養ある人物であった。
手先も器用であり、鞍鐙作りの名人としても知られ、「鞍打幻庵」とも呼ばれた。
他にも一節切り尺八も自ら製作し、その作り方は独特で幻庵切りと呼ばれている。
伝説によれば、伊豆の修善寺近郊にある瀧源寺でよく一節切りを吹き、滝落としの曲を作曲したとも云われている。
文化人としての幻庵の事跡は数多い。
天文3年(1534年)12月18日に冷泉為和を招いて歌会を催し(『為和集』)、天文5年(1536年)8月には藤原定家の歌集『藤川百書』の相伝者である高井堯慶の所説に注釈書を著し、天正8年(1580年)閏8月には板部岡江雪斎に古今伝授についての証文を与えている(『陽明文庫文書』)。
天文3年(1534年)12月18日に冷泉為和を招いて歌会を催し(『為和集』)、天文5年(1536年)8月には藤原定家の歌集『藤川百書』の相伝者である高井堯慶の所説に注釈書を著し、天正8年(1580年)閏8月には板部岡江雪斎に古今伝授についての証文を与えている(『陽明文庫文書』)。
このように和歌への造詣の深さは当代一流であった。また連歌にも長けており、連歌師の宗牧とは近江時代から交流を持ち、天文14年(1545年)2月に小田原で宗牧と連歌会を催した(『宗牧句集』)。



























