箱根巡りシリーズ神社仏閣(写真は全て(4月6日撮影)
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文化財
重要文化財
絹本淡彩北条早雲像
織物張文台及硯箱(伝北条氏政所用)(東京国立博物館に寄託)
県指定文化財
絹本著色北条氏康画像
室町期の肖像画。画面寸法は縦92.1センチメートル、横61.2センチメートル。
絹本著色北条氏康画像
室町期の肖像画。画面寸法は縦92.1センチメートル、横61.2センチメートル。
中央には上畳に座した北条氏康の姿が描かれている。
折烏帽子、白地に鶴亀模様の直垂姿で、腰には腰刀(こしがたな)、右手に金地に萩花の中啓を持った姿で描かれており、没後まもなく製作されたものと考えられている。
紙本墨画羅漢図
紙本墨画早雲寺本堂襖絵
紙本著色枇杷小禽図
紙本著色北條氏綱像
紙本墨画淡彩機婦図
梵鐘
町指定文化財
本堂
本堂
惣門
鐘楼
↑ 二代将軍秀忠公侍医 曲直瀬家三代 今大路道三玄鑑之墓 ↓
北条五代とは、後北条氏、早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直。
1590年(天正18年)7月5日、豊臣秀吉の小田原攻めによって小田原城は開城。
四代当主氏政とその弟の氏照は切腹、当時小田原城主だった五代当主氏直は徳川家康の娘婿であったため助命され高野山へ追放された。
翌1591年(天正19年)、氏直は秀吉より一万石が与えられ大名として復活する動きもあったが、同年11月4日に死亡している。
そのため、小田原北条氏は北条氏規(北条氏康の五男)が継承し、その子氏盛は狭山藩主となり狭山藩北条氏として明治維新まで存続した。
早雲寺の北条五代の墓は、1672年(寛文12年)、狭山藩北条家五代当主の氏治が北条早雲の命日である8月15日に建立したもの。
※
北条氏を継承した氏規は、豊臣秀吉の小田原攻めの際には韮山城に籠もり戦ったが、徳川家康の説得によって開城したのだという。
※
籠城する氏政、氏直父子を説得した黒田官兵衛は、和議成立の謝礼として氏直から「吾妻鏡」、「日光一文字(太刀)」、「北条白貝(ほら貝)」、「平家琵琶」を贈られたのだという。
籠城する氏政、氏直父子を説得した黒田官兵衛は、和議成立の謝礼として氏直から「吾妻鏡」、「日光一文字(太刀)」、「北条白貝(ほら貝)」、「平家琵琶」を贈られたのだという。
↑ 右から、初代早雲(伊勢新九郎長氏)、二代氏綱、三代氏康、四代氏政、五代氏直の墓が並んでいます ↓
案内板によると、天正18年(1590年)7月5日、小田原城の北條氏は秀吉に降伏。
11日、氏政と氏照は切腹を命じられ、氏直は高野山に追放されました。その氏直も翌年11月4日に追放先の高野山で死去。
伊豆韮山城主であった氏規(氏政の弟)が秀吉より大坂河内狭山に約1万石を許され「狭山北條氏」として存続。
また鎌倉玉縄城主北條氏勝が家康の傘下に入り、下総岩冨に1万石を与えられ「玉縄北條氏」として存続。それらの北條氏の家系は江戸時代を通じて存続したとのこと。
この早雲寺にある北條五代の墓は、寛文12年(1672年)の8月15日に、狭山北條家五代当主の氏治によって「早雲公」の命日に竣工されたものでした。
境内には県指定重要文化財の梵鐘の架かる鐘楼もありました。元徳2年(1330年)鋳造という古いもの。秀吉が、「小田原攻め」の時に石垣山一夜城で使用したものだという。
↑ 宗祇法師の墓 ↓
飯尾宗祇
室町後期の連歌師・古典文学者。紀州和歌山の生れ。別号、自然斎・種玉庵・見外斎。
室町後期の連歌師・古典文学者。紀州和歌山の生れ。別号、自然斎・種玉庵・見外斎。
連歌を宗砌 ・専順・心敬らに、和歌を飛鳥井雅親に、故実を一条兼良に学び、東常縁(とうのつねより)から古今伝授を受けた。三条西実隆とも親交。
北野連歌会所奉行および将軍家師範。
西行や能因法師と並んで芭蕉が最も尊敬していた詩人の一人。
西行や能因法師と並んで芭蕉が最も尊敬していた詩人の一人。
古典文学に関する高い教養を持ち、在来の連歌の上に古今和歌集の幽玄さを加えて連歌の革新を図った。
稲津祇空の墓
稲津祇空(いなづ ぎくう、寛文3年(1663年)-享保18年4月23日(1733年6月5日) )は江戸時代前期の俳人。
稲津祇空(いなづ ぎくう、寛文3年(1663年)-享保18年4月23日(1733年6月5日) )は江戸時代前期の俳人。
屋号は伊丹屋、通称は五郎右衛門、別号に青流(洞)、敬雨、竹尊者、玉笥山人、有無庵、石霜庵など。
当初談林派俳壇で活動したが、後に松尾芭蕉、宗祇の隠棲的な俳風を志向し、後世法師風と称される一派を築いた。弟に椎本芳室がいる。























