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お餅搗き
古来から日本では、稲作信仰というものがあり、特に平安時代から朝廷に推奨され顕著になった。これが現在でも受け継がれ、正月などのハレの日の行事には欠かせない縁起物の食材となっている。



このため、米などの稲系のもので作った餅が簡便で作りやすく加工しやすいことと相俟って、多様なつき餅の食文化を形成している。
考古学の分野では、間壁葭子が古墳時代後半(6世紀頃)の土器の状況からこの頃に蒸し器の製作が社会的に普及したと判断し、日常的に蒸す調理による食品の種類が増し、米を蒸す事も多くなり、特に餅を作る事も多くなったと考えている。
ただし、蒸し器の普及には地域差が見られ、佐原眞の『食の考古学』(1996年)によれば、6世紀時点の西日本では土器の状況から蒸す調理より煮炊き中心で、蒸す食物(餅も含む)はハレの時に用いられたとし、むしろ東日本の方が蒸す調理用土器が普及していたとしている。


↑ 餡子の絡み餅 ↓

日本における餅に関する記述として、『豊後国風土記』(8世紀前半)には次のような内容の話が語られている。
富者が余った米で餅を作り、その餅を弓矢の的として用いて、米を粗末に扱った。的となった餅は白鳥(白色の鳥全般の意)となり飛び去り、その後、富者の田畑は荒廃し、家は没落したとされる。
この記述は、白鳥信仰と稲作信仰の密接な繋がりを示す証拠として語られ続けている。
また、この記述自体が古来から日本で白鳥を穀物の精霊として見る信仰があった事を物語っている。


↑ 大根卸の絡み餅 ↓

『大鏡』(11世紀末成立)では、醍醐天皇(9世紀末から10世紀初め)の皇子が誕生してから50日目のお祝いとして、「五十日(いか)のお祝いの餅」を出された事が記述されている。
また、「孫の公成に目のない、老いた公季」の条においても、「誕生五十日の祝いに、赤子(公成)の口に餅を含ませた」とあり、天皇家や貴族の間では、生後50日目(2ヶ月しない内)に餅の味を覚えさせた事が記録されている。

↑ 黄粉の絡み餅 ↓

『吾妻鑑』の建久4年(1193年)5月16日条に、「三色餅」の記述がある。それによれば、黒・赤・白の三色の餅とあり、12世紀末の時点で、白色以外の色餅が作られていた事が分かる。
左に黒色餅、中に赤色餅、右に白色餅を置き、それぞれ食され、最後に重ねられ、上段に黒色餅、中段に赤色餅、下段に白色餅とあり、それを山の神に供したとある。
形状についての記述はないが、長さ8寸(24センチ)、広さ3寸(9センチ)、厚さ1寸(3センチ)とある。鏡餅や菱餅と同様に餅を重ねると言う行いは鎌倉時代(中世初期)より確認できる。

↑ 焼き餅 ↓


↑ お汁粉 ↓

民俗学的見地からは、東国では正月行事の中で餅を忌避して食べず、サトイモやヤマイモを食べる習俗の方が重要な意味をもって分布しており、この東西の差異は、西が水田稲作に対し、東が焼畑による生産圏であり、それと結び付いた行事の為と捉えられている。
従って、近畿圏と比べれば、餅が東国各地の正月行事で用いられ、普及するのは後になる。これはハレの食物としての餅が全国一様に普及するまでには(生産圏の差異から)地域差があったことを示す。
また、普及した後も、『餅の四角い東と丸い西』(宮本常一著作集13)の考察にあるように、東西日本では餅の文化は異なる歴史を歩んできた。 出典・ウィキペディア フリー百科事典。