北陸紀行3日目・43「金婚記念旅行の欠席者を巡る旅最終回
「田舎暮らし」

手取渓谷を後に、来た道を戻り、宿泊して居るT君宅を通り過ぎ、鳥越城へと車を進める。

鳥越村(とりごえむら)は、石川県の南に位置した村。一向一揆まつりで知られた。
金沢市への通勤率は13.1%(平成12年国勢調査)。

2005年2月1日に、野々市町を除く石川郡を構成する町村及び、松任市と合併し、白山市になった。

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↑ 白山市鳥越支所 ↓
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↑ 鳥越村歴史民族資料館 ↓
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↑ 妙観寺 ↓
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↑ 鳥越城跡 ↓
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歴史
手取川本流および支流大日川の河岸段丘上に合わせて29の集落があり、町村制実施まではそれぞれが独立した村であった。その後鳥越村成立まで複雑な離散集合をくり返した。

手取川本流筋
・広瀬 ・瀬木野 ・河合 ・下野(しもの) ・上野(かみの) ・釜清水・下吉谷 ・上吉谷 ・西佐良(にしさら) ・三ッ屋野 ・河原山 ・仏師ヶ野(ぶしがの)

大日川本流筋
・若原 ・三坂(みさか) ・出合 ・別宮(べっく) ・別宮出 ・杉森 ・神子清水(みこしみず)・渡津(わたづ) ・左礫(ひだりつぶて) ・三ッ瀬 ・数瀬 ・阿手

支流 堂川筋
・相滝 ・野地 ・柳原 ・五十谷

沿革
1907年8月5日 
別宮村、河野村、吉原村の合併により能美郡鳥越村が成立。当時の人口は約6,800人。

1916年 
役場庁舎落成。

1949年6月1日 
白峰村、尾口村と共に石川郡に編入。当時の人口は約5,800人。 当時は手取川を境に東側を石川郡、西側を能美郡としていた。さらに鳥越の人々は歴史的に小松との交流が深かった。

渓谷が深い手取川を渡るより、山を越えて小松へ抜けるほうが容易だったためである。しかし、1927年に金名鉄道が全線開通し鶴来へのアクセスが容易になったことで、鶴来との交流が盛んになる半面小松との関係は薄くなったため、石川郡への編入が妥当として編入の陳情がなされたのである。

2005年1月16日 
白山市への合併に向け、閉村式が行われた。
一向一揆(いっこういっき)は、戦国時代に浄土真宗本願寺教団(一向宗)の信徒たちが起こした、権力に対する抵抗運動の一揆の総称。

一向一揆
浄土真宗本願寺教団によって組織された、僧侶、武士、農民、商工業者などによって形成された宗教的自治、一揆の事である。

本願寺派に属する寺院、道場を中心に、蓮如がいう「当流の安心は弥陀如来の本願にすがり一心に極楽往生を信ずることにある」という教義に従う土豪的武士や、自治的な惣村に集結する農民が地域的に強固な信仰組織を形成していた。

1488年(長享2年)、加賀守護富樫政親を滅ぼすことでその勢力を世に知らしめる。戦国時代末期、織田信長などによって鎮圧されるまでは各地に安定した豊かな町が築かれた。本拠地とされた摂津大坂や伊勢長島、三河矢作川流域などは湿地帯であったことから、高度な治水技術があったのではないかとの見方もされている。

朝倉氏に奪われた越前吉崎御坊を取り戻すため何十回となく大規模な戦を起こしたり(九頭竜川の戦い)、一揆の拡大によって武家政権の基盤を脅かされることを恐れた織田信長や細川晴元ら権力者との争いを展開するなど、戦国大名化して覇権を争ってもいる。

しかし、1580年(天正8年)、信長との抗争に敗れて顕如が石山本願寺を退去した後は、本願寺の分裂騒動もあって一向一揆という名称は見られなくなる。

主な一向一揆
近江・金森合戦(1466年(文正元年))…史上初の一向一揆

越中一向一揆(1480年(文明12年)-1576年(天正4年))

加賀一向一揆(1488年(長享2年)-1580年(天正8年))

享禄・天文の乱(大小一揆)(1531年(享禄4年))

畿内(奈良)一向一揆(1532年(天文元年))…大和天文一揆

三河一向一揆(1563年(永禄6年)-1564年(永禄7年))

石山合戦(1570年(元亀元年)-1580年(天正8年))…本願寺第十一世・顕如が雑賀衆・浅井氏・朝倉氏・武田氏・上杉氏・毛利氏などと連合して信長包囲網の中核を成し、各地の門徒と連動して十年間に渡り織田氏を苦しめた史上最大の一向一揆

長島一向一揆(1570年(元亀元年)-1574年(天正2年))

越前一向一揆(1574年(天正2年)-1575年(天正3年))